[Theater an der Wien でヘンデル『サウル』を観る]
2年ぶりの冬のウィーン。到着して翌日、アン・デア・ウィーン劇場でヘンデルの『サウル』を観た。『サウル』は1739年にヘンデルが手がけたオラトリオ。オラトリオとは、聖書の物語や説教・祈祷をテーマにした声楽曲で、元来、宗教音楽として教会で演奏されたが、ヘンデルの時代になると、この『サウル』のように、旧約聖書の劇的な物語を「台本」のように扱い、演奏も教会ではなく世俗のホールで、普通のコンサートのように行われるようになっていた。このオラトリオにこそ、のちのオペラのルーツを見出そうとする説もあるが、とりわけヘンデルに関しては、作曲家が膨大なオペラ作品とほぼ同時進行的におびただしい数のオラトリオを作曲していることから、その作品リストからは、この二つのジャンルのつながりを読み取りやすいかもしれない。
なかでもこの『サウル』は、楽曲構成からみてもかなりオペラに近い性質を備えているため、「オラトリオからオペラへの変容過程」の格好の実例として取り上げられ、さらに今日では、もともとコンサート形式で演じられたこの作品に、演出と舞台・衣装を加えてオペラとして演奏されることがよくある。
ベートーヴェンの『フィデリオ』初演の劇場として知られるアン・デア・ウィーン劇場(1801年落成)は、現在、ウィーンにおいて国立歌劇場に次ぐ「第二のオペラ座」を自負している。ただ、オペラの殿堂、国立歌劇場とは異なり、レパートリー制ではなく、毎年、いくつかの作品を完全新演出で、基本的に再演なしの1シーズン限りの公演として舞台に上げてきた。こうしたシステムだからこそ、上演時間が極端に長いヘンデルのオペラや、やや難解な現代作品などを、歌手だけでなく演出やアンサンブルも超豪華客演で固めて企画することができるのだ。歌手にとっても観客にとっても長時間演奏が厳しい条件となるバロックオペラを発掘してはコンスタントに発信してきたこの劇場の功績は、きわめて大きいと言えるだろう。とりわけ、ヘンデルのオペラは、その規模や古楽器使用の点からみても、1800人収容の国立歌劇場よりもむしろこちらの古い劇場の方がずっとふさわしい。
さて、この劇場で私自身、2010年ごろから断続的にではあるが、ヘンデル・オペラを見てきている。しかし、「アリオダンテ」や「アグリッピーナ」など、どれを思い出しても全くいい印象がない。私の個人的印象だが、ヘンデルは「水上」ならぬ(笑)「天上の音楽」で、まさに、死後に天国なるものが存在するのであれば、そこではこのような音楽が天使たちによって奏でられているのではないかと、どの曲であれ、そんな妄想が膨らんでしまうわけだが、アン・デア・ウィーン劇場のヘンデル・オペラは、ほぼ例外なく、私のこの勝手な妄想をことごとく破壊するようなものだった。繊細で流麗な音楽に反発するかのように、舞台と演出はあまりに暴力的で象徴的。舞台で繰り広げられている行為と、原作のプロットとの著しい乖離は、音楽に集中することを妨げるレベルのものだった。
今回の「サウル」を手がけたのは、ドイツ語圏でまさに飛ぶ鳥落とす勢いの演出家、クラウス・グート。そして、グートに関してもこれまた全然いい印象がないのである。2010年前後にザルツブルク音楽祭で彼が手がけた「ドン・ジョヴァンニ」と「フィガロの結婚」は、原作のコケットをエロティシズムに変容させることで、18世紀のオペラのエレガンスを完全破壊していたからだ。
今回の歌手はタイトルロールにフローリアン・ボッシュ、ダヴィデにカウンターテナーのジェイク・アルデッティ、その他、サウルの娘メラブ役で準スターソプラノ、アンナ・プロハシュカも出演。ピットはフライブルク・バロックアンサンブルで、指揮はローレンス・カミングス。オラトリオで重要な役割を果たすコーラスは、アーノルト・シェーンベルク合唱団。
古楽の名門、フライブルク・バロックアンサンブルの音楽は、もうほろほろと心がほどけるほど美しい。ナチュラルトランペットやホルン、フルート・トラヴェルソの安定感などは、もうさすがというほかない。ただし、カミングスの指揮のスタイルがあまりに個性的。指揮棒は用いず、右手は何かを指差すような動作で、その人差し指をくねくねとミミズのように妙な感じに動かして音を作っていく。かなりパッショネートなタクトで、一応チェンバロの前に座った弾き振りなのだが、チェンバリストは別に控えていて、彼自身は鍵盤にほとんど触れず、時には立ち上がって舞台に向かって大口を開けて声を出さずに歌詞を先導?しているような時すらある。そして、この一風変わった指揮がなんとなくヘンデルの音楽に独特のビート感を作り出していく。仕上がるのは、当然、オーセンティックというよりはノリノリのヘンデルだ。
オペラのあらすじは旧約聖書通り。紀元前10世紀ごろのイスラエル王国の王、サウルは、アマレク人との戦いをめぐり神に見放され、後継者として巨人ゴリアテを倒した牧人ダヴィデに聖油を注ぐと、神の心はダヴィデに移る。民から英雄とみなされ、慕われるダヴィデに嫉妬したサウルは、一時は娘を娶らせようと約しながら、やがてはその命を狙うようになる。我が身を守るためサウルを殺す機会があったにもかかわらず、ダヴィデはサウルが王であることを理由に一切手を出さず、和解を求めようとするが、サウルの妬みはとどまるところを知らず、ダヴィデと義兄弟の契りを結んだ息子ヨナタンをも殺害し、自らも戦争で敵に追い詰められ、槍の上に身を投げて自殺することに。ダヴィデはいたく悲しみ、嘆きつつサウルの娘たちと弔いを済ませてから、いよいよ王の座に就き、イスラエル王国を担う若い君主となる。
クラウス・グートの今回の演出は、原作と違う別のストーリーを創作して無理に押し込めるのではなく、この原作をベースに、人間の支配欲・名誉欲、そして嫉妬や憎しみという感情をシンボリックに描いて、決して悪くなかった。嫉妬と愛情のアンビバレントを、身体を硬直させ、痙攣しながら表現したボッシュは、古代の物語という個別性から離れ、人間が共通してもつ普遍的な負の感情を具現化して好感が持てた。そして、合唱団。ソロ歌手とともに舞台に上がって演技するが、こちらはピーター・セラーズ演出によるベルリンフィルでのバッハ、マタイ、ヨハネ両受難曲を思わず連想させた。手の動きを巧みに使って「集団」の意思や感情を表現するのだが、ただし、グートの作り方はセラーズよりも動きが整然としていて、黒い背景に黒い服(終盤はこのコスチュームが純白に変わる)と、ライティングで強調された白い手の動きとコントラストが美しく感じられる箇所がいくつもあった。
初盤でダヴィデを認めながらも激しい嫉妬に苛まれ、白い壁に巨大文字でSAULと記す王。権力とは、そして、自らの名を後世に残したいという欲望は、これほどまでに人を虜にするものなのか。そして、善き心と正義感に満ち溢れた若い英雄だったダヴィデが王座に就いたとき、サウルがしたのと同じ重い身振りでその文字をDAVIDと書きかえるエンディングは、権力者の存在がその後2000余年にわたってもいまだ決して消え去らない現実を暗示しているようで実に感慨深かった。
ただし、現代にも通底する人間の醜く激しい感情をぶつけて表現し、曲を作り上げていくことになるので、その当然の結果として、歌手たちの歌唱の重点は、必ずしも美しく歌うことには置かれない。ヘンデルの声楽曲といえば、聴きたいのは歌手泣かせの長いコロラトゥーラのアリアだが、ほとんどの歌手がこの歌唱技法を放棄しているように見えた。最近のバロック作品の演奏で気になるのは、声を伸びやかに出さず、地声で語るように歌う歌手が多くなっていることだ。本日だと、司祭役のマルセル・ビークマンなどはその典型だったし、名演技で魅せたバリトンのボッシュもどちらかといえばこのタイプだ。ヘンデルのバリトン・アリアは、腹でしっかり支えながら力強く喉を使って歌うのが旧来のスタンダードで、女性のコロラトゥーラとはまた違った魅力を醸しだすものだ。これは素人目から見ても相当ハイレベルの歌唱技術を要する歌い方だが、こうしたアプローチが人気を失い、少しずつ消えていくのは残念だ。
アンナ・プロハシュカは、開幕前に支配人からのアナウンスがあり、この寒さで喉を痛めているらしい。いつもよりは若干声が弱い気がしたが、印象としては、体調にかかわらず、あまりヘンデル向きの歌手ではないのではないか。ザルツブルクなどでも本当に見事なモーツァルト・オペラのいくつかの役を聞かせてくれた名歌手ではあるが、モーツァルトとバロックオペラはまた違った世界であることも事実なのだ。
こうしてあれこれいろいろある中で、突出して歌が見事だったのは、何と言ってもカウンターテナーのアルデッティである。声が安定していて、喉の回し方も見事。やはり、カウンターテナーのパートはほぼ古いオペラにしか登場しないので、今回のキャストの間でも、このジャンルを最も知り尽くしていたアーティストがアルデッティだったのではないだろうか。
さて、ヘンデル愛好者として、個人的には古い牧人劇とか宮廷劇のようなしつらえの舞台を観たいタイプである。今回の「サウル」はもともとオラトリオ作品なので多少の遊びはあってもいいとは思うが、気持ちごとバロック時代に持って行ってくれるような本格的なパロック・オペラに出会ってみたいものだ。
実はここ二週間ほどは、ウィーンの音楽シーンはいわば「ヘンデルまつり」状態で、なんと国立歌劇場では、ウィリアム・クリスティーが、オペラ『アリオダンテ』を振っている。こちらもすごく楽しみだ。