第1章:侵食の兆し
目覚めた時、まず感じたのは冷たい汗だった。額から首筋を伝い、枕に染み込むような不快な湿り気。薄暗い部屋の中で、時計のデジタル表示がぼんやりと光っている。午前3時47分。2025年2月22日――そう、ここは自分の部屋のはずだ。ベッドの硬さも、窓の隙間から漏れる遠くの車の音も、いつもと同じ。なのに、何かがおかしい。指先が震え、心臓が不規則に跳ねる。
まただ。
目を閉じると、頭の奥で何かが蠢く。映像ではない。音でもない。もっと深い、感覚そのものだ。焼けた土の匂い。手に握られた刀の柄の冷たさ。目の前で炎が揺らめき、どこかで誰かが叫んでいる。武士の甲冑をまとった男がこちらを睨み、血の滴る刃を振り上げる。だが、次の瞬間にはそれが消え、再び薄暗い部屋に戻る。心拍数が跳ね上がり、息が詰まる。
「夢だ」と自分に言い聞かせる。夢ならいい。夢なら、目覚めれば終わる。でも、これは何度目だろう?
最初は確かに寝ている時だけだった。疲れが溜まっていたのだろう。会社での残業続き、デスクに積み上がる書類、上司の小言。それが脳に変な影を落としたのだと、そう思っていた。だが、最近は違う。昼間にだって、それはやってくる。例えば昨日、駅のホームで電車を待っている時だ。目の前を人が行き交い、電光掲示板が点滅しているはずなのに、突然、視界が砂漠に変わった。灼熱の太陽の下、ラクダの背に揺られ、喉が渇いてたまらない。隣にいたはずのスーツ姿のサラリーマンが消え、代わりに布をまとった男が水袋を差し出す。そんな幻が、ほんの一瞬、頭の中を支配した。
電車が来て我に返った時には、汗でシャツが背中に張り付いていた。周囲の視線が刺さる。自分が何か変な声を上げたのかもしれない。
それが一度や二度なら、まだ笑いものだ。「過労で頭がおかしくなった」と冗談で済ませられる。でも、日に日にそれは増えていく。まるで自分の人生に別の誰かが割り込んでくるように。遊郭の薄暗い部屋で、酒臭い息を吐く男と笑い合う女。塹壕の中で、泥にまみれて震える若者。ネオンの光が反射する濡れた舗装路を、全速力で走り抜ける少年。どれも自分の記憶ではない。知らない場所、知らない時代、知らない人生。それなのに、匂いや痛み、感情までがリアルに感じられる。自分が自分でなくなっていくような恐怖が、じわじわと胸を締め付ける。
今朝もまた、そうだった。目覚めた瞬間、ここが自分の部屋だと分からなかった。壁のコンクリートの冷たさ、鉄の扉の重い音、窓から見える灰色の空。どこかの監獄のような場所で、自分はベッドに横たわっていた。だが、まばたきをすると、そこはいつものワンルームに戻る。カーテンの隙間から朝日が差し込み、隣のマンションの窓が反射している。夢の続きか、それとも別の何かか。分からない。ただ、確かなのは、それが何回目かの「知らない目覚め」だったということだ。
立ち上がって洗面所に向かう。鏡に映る顔は、見慣れたはずのものなのに、どこか他人じみている。目の下の隈が濃くなり、頬がこけている。疲れているだけだ。そう言い聞かせて蛇口をひねるが、水を顔に叩きつけた瞬間、まただ。目の前が暗転し、冷たい石畳の感触が足裏に伝わる。どこかの古い町並み。着物をまとった人々が通り過ぎ、遠くで馬車の車輪が軋む。自分が誰かの肩に凭れかかり、血の味が口に広がる。刺されたのか? 痛みが胸を突き抜け、思わず洗面台にしがみつく。
「やめろ」と声に出して呻く。現実に戻ると、水が床に滴り落ちていた。
会社に行くべきか迷ったが、結局、スーツに袖を通す。電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見つめる。そこにいるのは誰だ? 昨日と同じ服を着て、同じ鞄を持ち、同じルートを通る自分。だが、内側では何かが崩れ始めている。電車が揺れるたび、頭の奥で別の記憶が揺らめく。刀を手に持つ自分。砂漠を歩く自分。遊郭で笑う自分。それらは全て別々の人生で、どれも自分のものではない。なのに、なぜか懐かしい。
職場に着いても、頭は霧の中だ。デスクに座り、パソコンの画面を眺めるが、数字や文字が意味をなさない。隣の同僚が「おい、大丈夫か?」と声をかけてくる。笑って誤魔化すが、その瞬間、また別の光景が押し寄せる。戦場だ。爆音が耳を劈き、土埃が舞う。目の前で誰かが倒れ、血が飛び散る。自分が叫んでいる。「逃げろ!」と。だが、次の瞬間には会議室にいる。テーブルを叩いて立ち上がったらしい。皆がこちらを呆然と見つめている。
「すまん、ちょっと気分が悪い」と言い訳して席を外す。トイレで顔を洗いながら、鏡の中の自分に問う。「俺は誰だ?」
その夜、再びベッドに横たわる。眠るのが怖い。目を閉じれば、また別の誰かになるかもしれない。だが、疲れが勝り、意識が落ちていく。そして、また目覚める。
そこは、見知らぬ場所だった。コンクリートの壁、金属のベッド、窓の外には灰色の空と無機質なビル群。時計はない。カレンダーもない。ただ、どこかで機械的な音が響いている。ここはどこだ? 2025年ではない。そんな確信が湧く。立ち上がろうとした時、部屋の隅にある端末が光り、冷たい声が告げる。
「囚人番号、起床確認。刑期残存:7999年11ヶ月28日」。
頭が真っ白になる。自分が何者か、もはや分からない。



















