本当の問題は機械が考えるかどうかではなく、人間が考えるかどうかである。
B・F・スキナー『行動工学の基礎理論――伝統的心理学への批判』
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本当の問題は機械が考えるかどうかではなく、人間が考えるかどうかである。
B・F・スキナー『行動工学の基礎理論――伝統的心理学への批判』

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自然を定義することはとても難しいが、ドゥルーズは次のように説明している。自然は「慣習(contume)」と対立するものではない。なぜなら、自然な慣習が存在するから。自然は「約束事(convention)」に対立するものでもない。どれほど権利が約束事に依存しているように思われようとも、我々は自然権というものを考えられるから。自然は「発明(invention)」と対立するものでもない。発明とは自然そのものの発見であるから。しかし、自然は「神話(mythe)」とは対立する。「人間の不幸は、人間の慣習や約束事や発明や産業が原因なのではなく、それらの中に入り混じる神話と、神話によって人間の感情と仕事の中にもたらされる偽の無限との結果なのである」(LS, p. 322/(下)一七八頁)。
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』講談社学術文庫、p. 58
藤本 今、世間全体に薄くなっていますが、八〇年代には確実にあった「恋愛が必要」という感覚自体も一種の時代の熱みたいなもので、それが冷めてしまえばそこまで必要なものでもなかったのかもしれない………と思うことはありますね。あとは、年齢が上がったことで性愛と自分との間に距離ができてくる微妙な感覚を描いた小説も、これまであまりなか ったのではないかと思います。作中にもそういう記述がありましたけれども、多少大人になってくると、かつては人間関係がぐちゃぐちゃになりがちだったものが、「これ以上は踏み込んじゃいけない。このへんで止めておこう」というようなことが分かってくるじゃないですか。
松浦 そうしたことを小説に書く人があまりいなかったのは、ある物事と自分との間に距離ができているなと思うと、それについては一切書かなくなるからでしょうね。
藤本 そうだと思います。その、自分にっての実感としてあるものを書くことと、それがないから書かないということの間にある微妙なものが、この小説では掬われている感じがしました。
藤本由香里、松浦理英子「対談 異性愛は男女の対等な 闘争たりうるか?」『新潮』2026年6月号
テクノロジーが提供するのは、問題ですらない事柄の解決法か、別の手段によって解決されるべき問題かのどちらかだ。
レベッカ・ソルニット「テクノロジーが奪うもの そしてそれを取り戻す方法」ハーン小路恭子訳、『世界』2026年5月号、岩波書店
■高齢者を襲うナショナリズムという病
特に、最近は経済のグローバル化が進むにつれて自国優先主義が台頭しています。自らの求心力を保つために、各国の指導者がこれまで以上にナショナリズムを煽るという傾向が強くなっているように思います。
このようなナショナリズムは、現代社会における持病の一種だと言えるかもしれません。それはもはやひとつのドグマ(教義)、宗教になっているというのが私の見立てです。
キリスト教や仏教など、本来の宗教は今やかつてのような絶対性を持っていませんが、代わりに現代の宗教と呼べるものが4つあると考えます。それは「拝金教」「出世教」「偏差値教」「ナショナリズム」の4つです。
現代人にとってお金と出世、それに結びつく偏差値、そしてナショナリズムは絶対的なもの。誰もがこれらに価値を見出し、追い求めているといっても過言ではありません。
なかでも拝金教と出世教が最も強い宗教でしょう。しかし、この2つは還暦をすぎるとその価値はしぼんでいきます。そして偏差値教もすでに学生からは遠く離れていますから関係ありません。最後に残るのがナショナリズムという宗教なのです。
だから「高齢ネトウヨ」の増殖が止まらない…佐藤優「拝金教でも出世教でもない"高齢者を襲う病の種類"」

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簡潔に言えば、ソーシャル・メディアは、第三者を対立に巻き込む能力を飛躍的に増大させた。人間は様々な点で〔他の動物と比べて〕際立った生き物だが、最も重要な特徴の1つは、本来は無関係な第三者が、見知らぬ人の間で生じた対立に介入しがちなことだ。これは場合によっては、規範的秩序の実効化を伴う。チンパンジーにはドミナンスの順位があるが、秩序を実効化する義務は完全に順位の高い個体に課せられている。順位の低い個体が最高順位の個体からものを盗んでも、それは最高順位の個体だけの問題で、他の個体がやってきて「ちょっと、それはやっちゃダメだろ!」などと言うことはない。一方、人間は、個人として利害関係がない対立にも首を突っ込みがちだ。
人間がいかにしてこうした性質を獲得したかというのは、進化理論において未だ解決されていない重要な問題だが、社会生活のあらゆる領域で、人々が他人の話に首を突っ込む傾向を強く持っていることは明らかだ。これは、社会規範を実効化するために即席の協力関係を築くことを可能にするため、社会的安定性を大きく増大させることが多い(例えば、行列に割り込もうとする人や、弱かったり傷つけられやすかったりする人を虐待している人に対して第三者がどんな行動をとるか考えてみよ)。しかし、これが対立をエスカレートさせる場合もある。命を脅かすような暴力の多くはこの第三者効果、つまり、当初の当事者ではなく、当事者によって巻き込まれた「協力者」たちによって生じている。協力者の介入が対立を緩和したり悪化させたりする理由の解明は、犯罪学や紛争研究における大きなテーマである(この点で、マーク・クーニーの“Warriors and Peacemakers: How Third Parties Shape Violence”『戦士と仲裁者:第三者はいかに暴力を形作るか』は推薦してもしきれない)。
ジョセフ・ヒース「キャンセル・カルチャーはシンプルに説明できる」(2023年12月3日)
インターネットによって、協力者を求める人間の能力がいかにして大きく増幅されたかを理解するのは難しくない。これまでなら当事者以外誰にも知られずに生じては消えていったような日常的な揉め事について、今や公衆の面前で糾弾されるかもしれないのだ。動画や写真を撮ってオンラインで投稿し、人々に味方になってくれないかと呼びかけるだけでいい。喜んで味方しようとする人を見つけるのは、大抵の場合難しくない。その数は、数千、数万、ときに数十万にも上る。Reddit〔アメリカのインターネット掲示板〕で「ちょっとだけ激怒したこと」(mildlyinfuriating)という板(subreddit)に投稿されたありがちなポストを見てみよう。このポスト(「夫は食洗器にこんな風に食器を入れるんです」)は、4,400件のいいね(upvote)と176件のコメントを獲得し、フロントページに表示されるようになった。
私たちが生きているのはこういう世界なのだ。ある日、仕事を終えて家に帰ってくると、妻が怒っているだけでなく、文字通り何千もの人々が妻の側についていることを知らされるのである。
もちろん、こうした家庭内の些細ないざこざは私的な問題であり、直接に影響を被る当事者の間で解決されるべきだという考えは、比較的最近生まれたものだ。シャリヴァリが示すように、中世ヨーロッパ社会の人々は他人の家庭の問題に強い関心を持っていた。私たちの多くが理解しているような「私的な生活」は、18世紀に発明されたものだ。重要なポイントは、社会が昔の規範に戻ってきているということではなく、第三者による介入の規模が大きく増大していることだ。これによって、対立をエスカレートさせる能力が劇的に高まり、2つの注目すべき影響が生じている。1つは、日常的なエチケットへの違反といった些細な対立の多くが、非常に激しく糾弾され、制裁されるようになったことだ。2つ目は、従来はあり得なかった仕方で個人や制度に脅しをかけられるようになったことだ。
「社会正義」について争点化することは、このダイナミクスの多くを曖昧にさせてしまっている。キャンセル・カルチャー現象を適切に理解するためには、紛争理論の視点を採用すべきだ。実際、現代の「被害者性の文化」(victimhood culture)の最もいらだたしい特徴の1つは、訴えの多くが、明らかに関係性攻撃〔人間関係や社会関係の操作を通じた他者への攻撃〕の形をとっていることである。キャンセル・カルチャーを批判しても、キャンセル・カルチャー問題を解決するのに効果的でないだろう理由も、これで説明できる。第三者を対立に巻き込むという、根底にある人間の性向が変化する可能性は低いし、この能力が〔情報〕技術によって増幅されるのは明らかに不可逆的な流れだ。それゆえ、キャンセル活動が消えることはないだろう。唯一の建設的な問いは、キャンセル活動に対する人々の対応の仕方が変わる可能性があるかどうか、である。
この点についてある程度の楽観主義をとる理由はある。キャンセル・カルチャーに対する私たちの現在の認識は、コミュニケーション技術の導入の世代差に強く影響されている。具体的に言えば、若者はソーシャル・メディアのアーリー・アダプターだったので、上で見てきたような、対立をエスカレートさせる能力の高まりは、しばらくの間、世代間で不均等に分布していた。結果、私と同じかそれより上の年代の人間が働いている組織の多くにおいて、オンラインで暴徒と化し様々な要求を行う若者たちの出現は寝耳に水だった。上の年代の人々の多くは、率直に言ってパニックに陥り、非常に愚かな選択を下すことになった。
(私が勤める組織〔トロント大学〕で数年前、こんなミーティングがあったことを鮮明に覚えている。私と数人の同僚たちは、ジョーダン・ピーターソンを辞めさせろという要求に過剰反応していた管理職やスタッフを説得することに成功したのだ。彼・彼女らは「我々はどうすればいいんでしょう?」と尋ねてきた。私たちは「何もしなければいいんじゃないですかね?」と答えた。彼・彼女らは「でも、こうした人たちになんて言えばいいんでしょう?」と返してきたので、堅苦しい地味なタイプのロースクールの教授が、彼・彼女らを正気を失っているかのように見やって、「失せろと言ってやったらどうだ?」と言い放った。これがこのミーティングのハイライトだった。)
ポイントは、大きな公立大学の上級管理職がオンラインの陳情に翻弄されるような時代はすぐに過ぎ去ると期待できる理由がある、ということだ。それは大部分、こうしたオンラインの暴徒たちのほとんどが張り子の虎だということが分かったからだ。彼・彼女らが第二の行動に出ることはない。キャンセルは「ショックを与えて慄かせる」(shock and awe)戦略であり、その成功は、最初の脅しが効果を上げるか否かにかかっている。
追加的な行動がとられないのは、オンラインでの言論の支配を現実世界の行動に結びつけるのが難しいためだ。これは、現代の若者世代が政治的行動を非常に不得意としていることを説明するかもしれない。初期のキャンセル活動の成功により、若者たちは自分たちが古い世代の人間を権力や権威の座から引きずり下ろせることに気づいて、大きな興奮がもたらされた(映画「ター/TAR」は、世代間対立のこうした側面をよく描いている)。残念なことに、これによって若者世代全体が、自分たちは伝統的な政治論議に参加する義務を免れていると感じるようになった。若者は、自身の見解を擁護する必要はないと考えるようになった。オンラインで暴徒を集めれば、意見の違う人間を糾弾できるのだ。同時に若者は、オンライン空間での支配の成功を、現実世界での政治的動員(例えば、若者に投票に行かせること)に結び付ける方法を発見できていない。こうして若者は、政治的議論で勝つための能力を獲得していないだけでなく、現実世界で組織構築を行う能力も持っていないという、奇妙な政治的宙ぶらりん状態に置かれることになった。結果、効果的な政治的変革のための基本的な技術を、若者たちは何一つ習得していない。
いずれ、主要な社会的組織の〔年配の〕スタッフは、オンライン空間に精通し、ソーシャル・メディアを管理する効果的な戦略に習熟した人々に置き換わるだろう。これにより、試合の土俵はかなりの程度平等になって、若者が過去数十年間享受してきた優位性はみな中和されるだろう。既にこの非対称性は減ってきていると感じている人もいるかもしれない。私の感覚だと、少なくとも北米において、キャンセル活動が最も効果を上げていたのは2018年頃で、それ以降は力が弱まってきている。とはいえ、私の認識が間違っている可能性も大いにある。
原則として、不正義や傷つけられた人に注意を向けさせ、その味方になるよう他人を巻き込む能力が高まっているという流れは、良いことだ。問題は、その結果生じてきた訴えの大氾濫の中で、もみ殻から小麦を選り分ける〔真っ当なものとそうでないものを見分ける〕方法がまだ見つかっていないことである。繰り返すが、この点で進展を期待する理由は存在する。しかしそれは恐らく、現在の過渡期的状況が終わってからのことだろう。
ジョセフ・ヒース「キャンセル・カルチャーはシンプルに説明できる」(2023年12月3日)
簡潔に言えば、ソーシャル・メディアは、第三者を対立に巻き込む能力を飛躍的に増大させた。人間は様々な点で〔他の動物と比べて〕際立った生き物だが、最も重要な特徴の1つは、本来は無関係な第三者が、見知らぬ人の間で生じた対立に介入しがちなことだ。これは場合によっては、規範的秩序の実効化を伴う。チンパンジーにはドミナンスの順位があるが、秩序を実効化する義務は完全に順位の高い個体に課せられている。順位の低い個体が最高順位の個体からものを盗んでも、それは最高順位の個体だけの問題で、他の個体がやってきて「ちょっと、それはやっちゃダメだろ!」などと言うことはない。一方、人間は、個人として利害関係がない対立にも首を突っ込みがちだ。
人間がいかにしてこうした性質を獲得したかというのは、進化理論において未だ解決されていない重要な問題だが、社会生活のあらゆる領域で、人々が他人の話に首を突っ込む傾向を強く持っていることは明らかだ。これは、社会規範を実効化するために即席の協力関係を築くことを可能にするため、社会的安定性を大きく増大させることが多い(例えば、行列に割り込もうとする人や、弱かったり傷つけられやすかったりする人を虐待している人に対して第三者がどんな行動をとるか考えてみよ)。しかし、これが対立をエスカレートさせる場合もある。命を脅かすような暴力の多くはこの第三者効果、つまり、当初の当事者ではなく、当事者によって巻き込まれた「協力者」たちによって生じている。協力者の介入が対立を緩和したり悪化させたりする理由の解明は、犯罪学や紛争研究における大きなテーマである(この点で、マーク・クーニーの“Warriors and Peacemakers: How Third Parties Shape Violence”『戦士と仲裁者:第三者はいかに暴力を形作るか』は推薦してもしきれない)。
ジョセフ・ヒース「キャンセル・カルチャーはシンプルに説明できる」(2023年12月3日)
重要なポイントは、社会が昔の規範に戻ってきているということではなく、第三者による介入の規模が大きく増大していることだ。これによって、対立をエスカレートさせる能力が劇的に高まり、2つの注目すべき影響が生じている。1つは、日常的なエチケットへの違反といった些細な対立の多くが、非常に激しく糾弾され、制裁されるようになったことだ。2つ目は、従来はあり得なかった仕方で個人や制度に脅しをかけられるようになったことだ。
「社会正義」について争点化することは、このダイナミクスの多くを曖昧にさせてしまっている。キャンセル・カルチャー現象を適切に理解するためには、紛争理論の視点を採用すべきだ。実際、現代の「被害者性の文化」(victimhood culture)の最もいらだたしい特徴の1つは、訴えの多くが、明らかに関係性攻撃〔人間関係や社会関係の操作を通じた他者への攻撃〕の形をとっていることである。キャンセル・カルチャーを批判しても、キャンセル・カルチャー問題を解決するのに効果的でないだろう理由も、これで説明できる。第三者を対立に巻き込むという、根底にある人間の性向が変化する可能性は低いし、この能力が〔情報〕技術によって増幅されるのは明らかに不可逆的な流れだ。それゆえ、キャンセル活動が消えることはないだろう。唯一の建設的な問いは、キャンセル活動に対する人々の対応の仕方が変わる可能性があるかどうか、である。
ジョセフ・ヒース「キャンセル・カルチャーはシンプルに説明できる」(2023年12月3日)
いっさいの長期的な政治的目標設定の酔いから覚めたのちに、私たちは学んだことがあります。今日ではむしろ、学ぶことが許されたと言うべきかもしれません。それは、戦争によって破壊された社会の再建が、資本主義的デモクラシーにおいて体制の競争という条件下で、社会国家の建設と結びつき得たということです。さらに冷戦の終了とともに、世界中に貫徹された資本主義を、もはやマルクスの意味で革命的に転覆させることはできない、ということです。むしろ、資本主義の破壊的な力は、その内部から馴致するしかないということです。この二つの経験によって二〇世紀の二十年代および三十年代の硬直したマルクス主義の歴史哲学の空気圧が抜けました。それは、ソヴィエト・マルクス主義の知性なきドグマ性から抜けただけでなく、ブロッホやベンヤミンのスタイルによる積極的ユートピア、また否定的ユートピアというインスピレーションに溢れた展望からも空気が抜けてしまいました。さらには、ホルクハイマーとアドルノ、ハンナ・アーレント、フランツ・ノイマン、あるいはエルンスト・フレンケルたちの、多くを教えてくれた全体主義理論、亡命者たちがファシズムとスターリニズムの経験を消化することでもたらした全体主義理論も、その時代診断的な力を次第に失ってきました。八十年代初頭まで今なお生産的だった西欧マルクシズムの政治的刺激を受け継ぐための社会理論的なアプローチは、歴史哲学的な方向への裏口の扉を開いておくようなやり方では無理となりました。いずれにせよ私は、自然的目的も、歴史を貫く導きの手も見ることができません。
ユルゲン・ハーバーマス『 ハーバーマス回想録: この世界が少しでも良くなるには…… 』(pp.114-115). 株式会社 岩波書店.

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最後に、市場経済での個人の雇用割り当ては計画されていないことを覚えておきたい。社会を順調に動かすため、一定数の人たちが医者やパイロット、小学校の先生、料理人、修理工、ごみ収集人、コンピュータのプログラマーなどになると同意しないといけない。しかし大人になったら何になりたいかを高校生にアンケート調査すると、人はただ自然に適切な職業グループに分かれるわけではないことは明らかだ言うまでもなく、社会の半数がラッパーや女優やアート系映画監督の経済はうまくいくわけがない) 。だから、志望者が殺到している職業から方向転換させて、人材不足の職業へと流しこむメカニズムが必要になる。このプロセスはおのずと強制的である。ほとんどの人は自分がしたいこと(芸術家、俳優、音楽家)をあきらめるよう要求されるのだ。「社会」が求めること(ウエイター、データ入力事務員、管理スタッフ、販売員)をするために。
この強制はさまざまな方法で実行可能である。卒業する学生全員が適性検査を受け、全員の進路を把握する巨大コンピュータで仕事が振り当てられる、そんな計画経済が思い浮かぶ。いかにも無味乾燥でつまらない方法だ。市場経済でこれに代わる解決法が、ずばり競争的労働市場をもつことである。すべて順調にいけば、超満員の部門の賃金は競り下げる一方で、供給不足の部門の賃金は上昇する。その結果、ある部門の高賃金に引き寄せられ、またほかの部門の低賃金や失業で追い払われ、人々が右往左往した末にすべての雇用が満たされる、各自の選択でそうしているとしても、労働市場がある程度は強制的な役割を果たしていることに変わりはない。夢をあきらめ、望んでいたよりも地に足の着いた生活を受け入れさせるのだ。そしてこれを達成する手段が、賃金の変化と関連部門にはびこる失業率である(この点で社会があまりに多くの人間を俳優にしないよう、どれほど努力しているかを考えてほしい) 。そこで特定の賃金がどれほど「公平」か「不公平」かを考えるときに、労働市場が人々に多くのつらい決断を課すことに社会が依存している、そのことを覚えておきたい。特定の職業では生計を立てられないという単なる事実は、それしか給料がもらえないのは不公平だということを意味しない。「社会」がその職業に就くよう要求していない、ということではなかろうか。あまりに多くの人がもうしている仕事だから。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』栗原百代訳、NTT出版
一般に、誰それが充分な給料をもらっていないという結論に飛びつくのは安易すぎる。単に仕事を見て、その仕事にいくらの「価値がある」か直観的に判断するというだけでは不充分だ。賃金は市場経済では価格であり、一つのものの価格はつねに他のすべての価格次第で決まる。そのうえ、価格は基本的に相対的な希少性を追いかけるもので、このため賃金は、その仕事をする意思または能力がある人が何人いるかに強く影響される。実際の仕事や必要とされる労力とはまったく関係がない要素に影響されるから、特定の賃金率が公正か不公正かという直観的道徳的判断に頼れば、単純化された政治判断に、極端な場合には役に立たない労働市場政策につながるのがおちである。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』栗原百代訳、NTT出版
生みだすものの固有の価値で賃金が決まるのでなくて、たいがいの人にはとても幸いだ。もしそれで決まるなら、ひどい貧乏になっていただろう。これについては自分の仕事で考えよう。日課を検討して、同じ仕事を一世紀前にしていた誰かの一〇倍の生産性があるか自問する。農業従事者、建設作業員、鉱業労働者、会計士、技師、書類係、工員は「ある」と簡単に答えられる。ほかは、そうではない。しかし「ない」と答える人としては、かなり生産性が高まった部門の労働者のおかげにあやかっているわけだ。市場が賃金に関してやや均等化したがる傾向があることに私たちは便乗している。
ある意味、給料は実際の仕事よりも、できたはずのことに支払われている。少なくともそれだけの額をもらってない人は今の仕事をやめて、そのほかの仕事を始めることだろう。仕事はほとんど同じなのに、法学教授が哲学教授の二倍ほど稼いでいる理由はこれである。実際の話、たいがいの法学教授はもしも大学を辞めて弁護士の仕事に就けば、今よりもっと稼げるだろう。それにひきかえ、哲学教授は、哲学を教えるしか能がない。たとえある日、世界じゅうの哲学教授の給料が半額にカットされても、哲学科は一つたりとも閉鎖されないと思う。法学部はそうはいくまいが。
こうしたことから二つ目の問題が浮かびあがる。外ではそんなひどい選択しかないなら、哲学教授はなぜそれほど給料をもらえるのか? 答えは、私たちの経済の二つ目の均等化傾向に関係している。つまり大きな組織では、従業員間の賃金格差を平らに均しがちだということだ。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』栗原百代訳、NTT出版
バーバラ・エーレンライクの著書『ニッケル・アンド・ダイムド』は、ジャーナリストが低賃金労働に潜入して発見を報告するという零細産業を生みだした。話の教訓はどの例でもほぼ同じだった。善良で勤勉な人たちが骨の折れる仕事をしていて、屈辱に耐えることを強いられながら悲惨なほど薄給ということだ。まったくそのとおり、肝に銘じておきたい。しかし、どうしたらいいのか? あからさまにも、暗黙のうちにも、一般に勧められるのは以下の二つ。その一、そういう人たちには親切に。これには異論はないと思う。その二、賃金を上げる。ここで議論が(たいしたことではないが)ややこしくなる。勤勉で善良な人はかなりいい給料をもらうのが自然な考えのように思えるのに、資本主義ではそうはいかないのが純然たる事実だ。国内的にも国際的にもそうならない。結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。分配の公正を理由に慈善的な価格方針をとれば、負のインセンティブ効果を招きかねない。要するに、いつもながら市場には、国民の支援を意図した発案をかえって前より困窮させるものに変える苛立たしい傾向があるのだ。このため貧困撲滅の構想は、単に賃金を上げるよりもっとずっと高度なものでなければならない。支払われる賃金を操作するよりは、いっそ労働者に(税制などを介して)金銭を与えるほうがましなことが多い。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』栗原百代訳、NTT出版
さて、おれはどっちやろう。「まき込む」側に立っているのか、「まき込まれる」側に立つのか。いや、ほんとうのところは、私には答ははっきりしていて、私はそうしたことばに出会うたびに、ひそやかな決意をこめて自分は「まき込まれる」側に立っている、どんなことがあろうとそこに立ちつづけるのだとあらためて思う。それで私の場合はいいのですが、私が気にかかるのは、その革命の本の読み手のうちの何人が自分は「まき込む」側に立っていると考えるのかということです。いや、これは逆に言ったほうがよいでしょう。何人が「まき込まれる」側に自分が立つと考えたか。もうひとつ言って、そこに徹しようと考えているのか。私にはそのあたりのことが気にかかってならないのです。率直な感想を言えば、あんまりみんな──そんなふうな革命の本の読み手であるようなみんなが「まき込む」側に自分を結びつけて考えてしまっている。あまりにも安易に、ときには先験的に結びつけてしまっていて、いったい、自分をそうみなし得る根拠は何なのか、までつきつめて考えようとしない。そこをつきつめて考えようとしないものだから、もともと、人間には、「前衛」であれなんであれ、また、どのような目的をふりかざそうとも、他の人間を「まき込む」権利があるのか、あるとすればその根拠は何であり、誰がそれをきめるのかというおおもとの問題まで達するべくもない。ほんとうのことを言うと、これまでの革命、あるいは、革命運動がかんじんの人びとのことをおき忘れたひとりよがりのものとなり、いつのまにか「革命のための革命」になってしまうのがあまりにも多かったのは、そこに原因があったように思うのです。
小田実『世直しの倫理と論理』小田実全集、講談社

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しかしわれわれの見解によれば、可能な価値の第三のカテゴリーがさらに存するのである。なぜならば人生は、たとえ創造的に実り豊かでもなく、また体験において豊かでなくても、根本的にはまだなお有意味でありうるからである。すなわち、人間が彼の生命の制限に対していかなる態度をとるかということの中に実現化されるような第三の重要な価値群が存するのである。その可能性の狭隘化に対して人間がいかなる態度をとるかというまさにそのことの中に、新しい独自な価値の領域が開かれるのであり、それは確実に最高の価値にすら属する。かくして、一見したところ現実に創造価値ならびに体験価値にきわめて貧しい存在ですらも、なお価値を実現するべき最後の、しかも偉大な機会をもっているのである。この価値をわれわれは態度価値と呼びたいと思う。なぜならば人間が変えるこ とのできない運命に対していかなる態度をとるか、ということがこの場合問題であるからである。したがって、かかる価値を実現化する可能性は、一人の人間が運命に対して、それを受け取るよりほか仕方がないような場面において生ずる。すなわち、いかに彼がそれに耐え、いかに彼がそれをいわば彼の十字架として自ら担うか、ということが問題なのである。たとえば苦悩の中における勇気、没落や失敗においてもなお示す品位、等のごときである。われわれが態度価値を可能な価値のカテゴリーの領域の中へひきいれると、人間の実存は本来決して現実に無意味になりえないことが明らかになる。 すなわち、人生はその意味を「極限まで」保持しているのである。したがって、人間が息をしている限り、また彼が意識をもっている限り、人間は価値に対して、少なくとも態度価値に対して、責任を担っている。人間は意識存在をもっている限り、責任性存在をもっているのである。価値を実現化するという彼の義務は、人間をその存在の最後の瞬間まで離さない。価値実現の完成がたとえどんなに制限されようとも、態度価値を実現化することは可能でありつづける。かくして、人間存在は意識性存在と責任性存在である、というわれわれの出発点である命題の道徳的な妥当も明らかになる。
ヴィクトール・E・フランクル『人間とは何か 実存的精神療法』山田邦男監訳、春秋社、2011年、pp. 49–50
レトリックの作り出した、どこから見ても彼の所在が死角に入る不思議な部屋に住み続けて、彼は何人も打ち倒すことのできない権威として、つねに日本の知的な世界での第一人者の地位を保ち続けているのである。
加藤尚武『進歩の思想 成熟の思想』講談社学術文庫、pp. 190-191