須曽蝦夷穴古墳(国史跡)
どうしてもみたかった須曽蝦夷穴古墳。
運転中、「須曽蝦夷穴古墳」と書かれた大きな看板が至る所で出てくるのでカーナビがなくてもわかりやすい。
話は飛ぶけど、岐阜の山奥にドライブに行って「飛騨鍾乳洞」とか「大橋コレクション」とかの看板を見るとわくわくするあれに近い感情がここでも湧き出す。
(大橋コレクション、どんだけマニアやねん。笑)
あいかわらず、ここも客は誰もいない。
(やはり観光は平日に限る)
須曽蝦夷穴古墳駐車場に到着すると、ここから150mと書かれていたので新緑のフィトンチッド溢れる清々しい香りを嗅ぎながら鳥の声しか聞こえない道を行くと意外なほど直ぐに到着。
近くには「蝦夷穴歴史センター」があり、出土品や発掘中の写真、島内の遺跡出土品などが展示されています。
「こ、これが日本で唯一ともいえる高句麗式古墳か!平べったくて京都の将軍塚みたいだけど、ああああ、入口が二つある!これは珍しい!」と相変わらず独り言でやばい人感たっぷりだ。
「まじか!中に入れるぞ!」
むちゃくちゃ狭い墓室は二つあり頭に気を付けながら上を見上げると独特な石の積み方をした天井が見えます。
「このラテルネンデッケ技法の石組みなんて力学がわかってないと出来んぞ!昔の人、どんだけ頭いいの?これを見るだけでも価値があるな」
天井を撮るのを忘れたので、気になる人はネットで調べてください。
ちなみにこの独特な石組みのドーム技法である「ラテルネンデッケ(隅三角持送り技法)」は日本ではこの須曽蝦夷穴古墳でしか見ることができません。
「しかし、ここ、いったい誰の墓だったのか?」と今頃になってシンプルな疑問が湧いてきた。
ここで中学、高校時代歴史の成績はクラスでほぼトップだったことを後に当時の教師から教えてもらったことを思い出し、自分なりに脳内で歴史的回想を始める。
3世紀から6世紀、朝鮮半島に伽耶という国が存在していて伽耶は当時、百済や新羅も持たない高度な製鉄技術で栄えた「鉄の王国」と呼ばれる国だった。
(あー、いろいろ思い出してきた!鉄の王「キム・スロ」なんて韓国ドラマもあったよな!笑)
この古墳は日本書紀に登場する660年に蝦夷・粛慎(しゅくしん)遠征に従軍し、亡くなった豪族・能登馬身龍の墓とする説があります。
一方、伽耶が滅亡するまで伽耶の友好国であった日本のヤマト政権は伽耶を北方の騎馬民族からの侵略と高度な製鉄技術を守るため幾度となく朝鮮に出兵していたことも周知の事実です。
能登、特に穴水周辺では鋳物の製造・生産が盛んにおこなわれていた時代があり、穴水に鋳物博物館まであることや、須曽蝦夷穴古墳のような日本でもほとんんど前例がない高句麗式の古墳ということを鑑みれば、出土品の直刀やほぞ孔鉄斧などから伽耶から高度な製鉄技術を持って渡来し、鋳物の精錬・製造技術を能登に伝えた人物だということも考えられると個人的には思います。
誰の墓かは今もわかっていませんが、この南向きの小高い丘からそういった当時のことをいろんな角度から想像すると何とも言えないロマンティックな気分になりました。
次回に続く・・。














