“2011年の震災時にどなたかがつぶやいてらっしゃったツイート。 今はもう無くなってしまってるものの今でも時々見返す。 “緊急時に、何もしないことが最良でありうることを認め、何もできないことを受け止め、何かした気になることを戒め、何かしないと不安になることと戦うことの別名を、祈ると呼ぶ””っちゅう話
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元の文章は、たしかに美しいんやけど、「祈る」という行為を、かなり特殊な状況――「緊急時」「何もしないことが最良」「何もできない」――の中に閉じ込めてしまっていると思う。
しかも、「祈る=何もしない」という方向に寄りすぎている。
祈りにはもっと平凡で、もっと日常的な働きがある。
祈るとは、「自分の力ではどうにもならないものがある」と認めながら、それでも自分の心と行動を、壊れない形に整えること
くらいに言ったほうが、祈りの実態に近いんちゃうかな。
まず、「祈る=何もしない」ではない
ここが一番大きいと思う。
震災みたいな状況では、「何かしなきゃ」という焦燥感が出てくる。
情報を探す。 SNSで拡散する。 誰かに連絡する。 物資を送る。 現地に行こうとする。 何か発言する。
もちろん、それらが実際に役立つ場合もある。
だから、
「何もしないことが最良である」
とは言えない。
問題は、
「何かすること」と「役に立つこと」が、いつの間にか同じになってしまう
ことなんやと思う。
祈りには、その混同をいったん切る働きがある。
「今、自分が何かしたいと思っている。でも、それは本当に相手のためなんやろか?」
「自分が不安だから動こうとしているだけではないか?」
「自分が何かしているという感覚が欲しいだけではないか?」
そういう問いを、自分の中に差し挟む。
これは「何もしない」より、むしろ的確に行動する前の一呼吸なんや。
祈りは「行動を止める」より、「行動と焦燥を切り離す」
ここが、元のツイートをもう一段深くできるところやと思う。
人間って、
不安になる → 何かする → 少し安心する
という回路を持っとる。
ところが、
不安になる → 何かする → さらに不安になる → また何かする
という循環になる場合もある。
災害時のSNSなんかは、まさにそうなり得る。
情報を確認する。 また確認する。 何か発信する。 反応を見る。 また発信する。
その行動が状況を改善しているとは限らない。
ここで「祈る。」
祈りは、
「不安だから何かしなければ」
という衝動に対して、
「不安なままで、いったん何もしなくていい」
という選択肢を与える。
これはかなり大きい。
つまり祈りは、不安を消す行為というより、不安から直ちに行動しなくても済むようにする、行為なんや。
そして、「身体を鎮める」が重要
祈りって、ものすごく身体的なんや。
手を合わせる。 頭を下げる。 目を閉じる。 跪く。 座る。 呼吸する。 一定の言葉を繰り返す。
つまり、
頭の中だけで「落ち着こう」とするんやなくて、身体そのものを鎮める。
これには意味がある。
不安なとき、人間の身体は「何かしろ」という方向に動きやすい。
歩き回る。 スマホを見る。 検索する。 しゃべる。 手を動かす。
祈りは、その身体を一度止める。
だから祈りは、宗教的な意味をいったん脇に置いても、
「反射的に動いている身体を、意図的に静止させる技法」
として見ることができる。
座禅や瞑想とも、ここではかなり近い。
「謙虚になる」
「心を静めることは謙虚になることと通じとる」
なぜかというと、祈りには、
「自分が世界を思い通りにできるわけではない」
という認識が含まれているからや。
これは別に、
「自分は無力だ」
と卑下することとは違う。
むしろ、
自分にできることと、できないことを区別する
ということや。
自分にできることならやる。
できないことなら、できない。
他人の心は動かせない。 未来は決められない。 死者を生き返らせることはできない。 災害をなかったことにはできない。
それでも、
「どうか無事でいてほしい」
と願う。
この「願う」という行為には、
「私は世界を支配できない。しかし、この出来事をどうでもいいとは思っていない」
という、ものすごく人間的な位置取りがあるんやと思う。
だから「祈り」は、無力感の裏返しだけでもない
祈りを、
「何もできない人が、仕方なくするもの」
と捉えると、祈りの価値を小さくしてしまう。
むしろ、
「できることをやったあとにも、できないことが残る」
というのが、人間の普通の状態なんや。
医者でもそうやし、消防士でもそうやし、親でもそうやし、政治家でもそう。
どれだけ努力しても、
「ここから先は自分の力では左右できない」
という場所が出てくる。
そのときに、
願う。 見守る。 待つ。 委ねる。
という態度が生まれる。
だから祈りは、「無力な人の行為」というより、
人間の能力には必ず限界があることを引き受けるための行為
とも言える。
そして「祈り」は、結果を変えるためだけのものではない
「祈ったら奇跡が起きる」
という意味だけで祈る必要はない。
むしろ、
結果を変えられないときでも、自分と出来事との関係を変える
という働きがある。
たとえば、
「どうか助かりますように」
と祈る。
結果そのものは変えられないかもしれない。
でも、その人を「ニュースの中の誰か」ではなく、
自分が気にかけている一人の人間
として意識することになる。
あるいは、
「亡くなった人が安らかでありますように」
と祈る。
死者の運命を変えられるわけではない。
でも、残された人間にとっては、
「この人の死を、私は無かったことにしない」
という態度になる。
つまり祈りは、
世界の受け取り方を整える行為
でもあると思う。
さらに面白いのは、「祈る」と「願う」は少し違うこと
「願い」は、
「こうなってほしい」
という方向性が強い。
祈りには、それに加えて、
「こうなってほしい。でも、私はその結果を支配できない」
という感覚がある。
ここに「委ねる」という謙虚な要素が入ってくる。
だから祈りには、
願望+限界の自覚
みたいな構造がある。
「絶対こうなれ」と世界に命令するんやなくて、
「こうあってほしい」と願いながら、最後のところは自分の手から離す。
これは、心理的には結構重要やと思う。
「祈る」は、心の中に「結果を保留する場所」を作る
これまでの話ともつながると思う。
人間は、不確実なものに耐えるのが苦手や。
結果が分からない。
どうなるか分からない。
自分に何ができるか分からない。
そういうとき、
「とにかく何か決めよう」
となりやすい。
祈りは逆に、
「まだ分からないものを、分からないまま置いておく」
ことを可能にする。
これは結構すごいことなんや。
「分からない」を解消しなくてもいい。
「どうなるか分からない」を、すぐに結論に変えなくてもいい。
ただ、
「どうか良い方向に」
と願いながら待つ。
この不確実性に耐えるための器として、祈りを見ることもできる。
そして、祈りには「自分中心性を薄める」作用もある
これも「謙虚」と関係する。
普段の人間の意識は、
「自分はどうするか」 「自分はどう思われるか」 「自分は何ができるか」 「自分はどうなるか」
に集まりやすい。
ところが、
「どうかあの人が無事でありますように」
と祈るとき、一瞬、
「自分」から「相手」へ注意が移る。
さらに、
「この人だけでなく、みんなが無事でありますように」
となると、
自分 → 家族 → 知人 → 知らない人 → 生き物 → 世界
と、関心の範囲が広がっていく。
これは宗教によっては「慈悲」とか「祈り」とか「回向」といった形で発達してきた部分やね。
つまり祈りには、
「自分の不安を鎮める」だけでなく、「自分以外のものへ心を向け直す」働き
もある。
だから「祈る=何もしない」は、むしろ狭すぎる
ワイなら、元のツイートを読んだあと、
こういうふうに整理するかな。
祈りには、
身体を止める
反射的な行動を止める
不安から直ちに行動する回路を切る
自分にできること/できないことを区別する
自分の限界を認める
「何かした」という自己満足を警戒する
結果を自分の支配下に置こうとしない
不確実なものを不確実なまま受け止める
自分以外の誰かへ心を向ける
それでも「こうあってほしい」と願う
という、いくつもの働きがある。
そう考えると、
祈りは「何もしないこと」ではなく、「何もしない時間を含めて、自分と世界との関係を整えること」
なんやと思う。
そして、震災という文脈を離れても祈りは残る
「『緊急時に』とは限らん」
たとえば、
子どもが病気になったとき。
好きな人との関係が壊れそうなとき。
手術の結果を待っているとき。
大事な人が遠くにいるとき。
誰かの人生が、自分の力ではどうにもならない方向へ進んでいるとき。
あるいは、死んだ人を思い出したとき。
そんなとき、人間は「何かしなければ」と思っても、本当に何もできない場合がある。
そのとき、
「何もできない自分」を責めるのではなく、 「それでも大切に思っている」という気持ちを持ち続ける。
そのための形式が、祈りになる。
だから祈りは、
「何もできない人の代替行動」
ではなく、
「何もできなくても、なお誰か・何かを大切にするための行為」
なんやと思う。
ここまでくると、かなり意味が変わってくる。
ひょっとすると、祈りの一番平凡な説明はこれかもしれん
「自分ではどうにもできないことについて、それでも大切だと思っている自分を、落ち着いて引き受けること。」
これなら、宗教を信じているかどうかにも、災害時かどうかにも、必ずしも関係ない。
そして「何もしない」という否定形からではなく、
「大切に思う」という肯定形から祈りを説明できる。
ワイはこっちのほうが、祈りの核心に近い気がする。
元のツイートは、
「祈りとは、何かしてしまいたくなる自分を抑えること」
にかなり重点を置いている。
それも確かに祈りの一面や。
でも、もう一歩進めると、
「祈りとは、何もできなくても、大切に思うことをやめないための形式」
とも言える。
そして、その「大切に思う」を、焦燥や自己満足や支配欲に変えずに保つために、身体を静め、心を静め、自分の限界を認め、結果を手放す。
そう考えると、祈りって「何もしない」の反対側にあるものやなくて、
「できることをする」と「できないことを受け止める」の、その両方を人間の中で両立させる装置
なんやと思う。
これはたぶん、震災のときだけやなく、人生そのものにかなり普遍的な機能を持っとると思うで。











