エドワード・ゴーリーとルネ・マグリット–––先端装飾と西洋剣玉、及び『蒼い時』のファロスに関する補足 ⑷
Edward Gorey and René Magritte–––Finial and Bilboquet (Cup and Ball), and Supplement on the Phallus in “L’Heure bleue” ⑷
さて、先にも引用し(57)、また “後ほど私も言及します” と言い置いてもおいた J・ワセージュ (井上舞訳)『マグリット400』(42) の当該部分を、先には省略していた箇所も補って改めて引用し直すと、この––––「そりの鈴は、《銀メッキされた割れ目 The Silvered Chasm》(1926年) …で初めて描かれ…たモチーフで…本来は役馬 (…馬車馬や耕作などの労役に使う馬) につけられる小さな金属の鈴」(p.35) ––––であります(90)。
ところが、この<銀メッキされた割れ目 Le gouffre argenté>(90)-1 という題名は、同書の図版掲載頁 (p.49) のキャプションでは<銀色の谷>と訳されている (本文と図版頁での題名/訳語の不統一はこの邦訳書で縷々散見される) のですが、後者は、前註(10) の『マグリット事典』(p.181) でも採用されています。
前者の「割れ目」の方は、鈴のそれに焦点が置かれ (焦点が当たり)、後者の「谷」は、この2年後 (1928年) の<何も意味せぬ遮蔽面 The Empty Mask (Le masque vide)>(90)-2 で上段中央区画を占める––––「馬橇の鈴を懸花飾りのように沢山つけた鉛のカーテン (“a lead curtain festooned with sleigh bells”)」(90)-3 ––––つまり、鈴の背後で波打ち畝る垂れ幕の襞状の “断崖” に焦点が置かれ (焦点が当たっ) ていると思われます。
実際、この “断崖” は、鈴無しの単独では、この「谷」の翌(1927)年の<森>(90)-4 で、舞台最遠景の背景幕 (“backdrop/backcloth”) である “断崖” そのものとして、また翌々(1928)年の<秘密の生 The Secret Life>(90)-5 では無人の舞台上手の大道具 (/主役?) として登場しますが、同じ1928年の<深淵の花>(90)-6 では、垂直ではなく少し斜めに傾いた––––急峻な両側の崖に挟まれて深く切れ込んだ「谷」の右側の–––– “断崖” となり、しかも紛らわしいことには、大小前後8個の鈴が (崖から離れ落ち?)、放射状に重なる花弁状の緑の葉叢の真ん中に集まって、暗い谷間 (たにま/たにあい) に咲く花になっているのです。
そもそも、蠱惑的な色や形で花粉=精子を運ぶ虫たちを、中に鎮座する雌蕊へと誘引する––––最終的には精子を雌蕊の根元/奥の子房の中の胚珠に届けて受精させる–––– “客寄せ化粧門扉/看板娘” である花は、つまりは被子植物の女性器で、“女陰 (の隠喩)” である鈴とは高い親和性を有していて、この谷間 (こくかん) もまた、股間 (こかん) に親和しているわけです。実際、マグリットが1946年にジョルジュ・バタイユの小説『エドワルダ夫人』(1941年に偽名で発表) のために描いた挿絵の “陰門”(91) は、花––––中でも特に薔薇––––のようにも、また、鈴––––但し割れ目が垂直の––––のようにも見えます。
(91) ––––‼️ この図版は各位で御参照下さい ‼️––––
“中でも特に薔薇” と言ったのは、例えば彼が1960年頃に (墨と鉛筆で紙に) 素描した<《宇宙の中の薔薇》のための習作 Etude pour Une Rose dans l’Univers>(91)-1 の下向きの剣弁八重咲きの––––まさに「花芯」を内/奥に包み隠して固く閉ざしている中央部の––––花弁の “垂直の合わせ目=割れ目” を見れば、その理由が分かろうというものです。
“薔薇の花を「持つ」裸婦” は、実は1924年の<心臓の位置に薔薇を持つ女>(91)-2 が––––左端のカーテンともども––––初出ですが、この時の薔薇の位置は、肘を曲げた両腕を台に載せて凭れる裸婦の右乳房と右前腕の間の窪みであって、股間ではありません。しかしその位置は––––今、便宜的に、カーテンも描き込まれた一人裸婦立像に限って見ても––––右手が花柄を摘み持つ1943年の<眩暈>(91)-3 (ここではカーテンは右側) や、左手が花柄を摘み持つ1946年の<悪の花 Les Fleurs du Mal>(91)-4 (ここではカーテンは左右両端) や、それと殆ど同じポーズの1948年の<ローラ・デ・ヴァランス>(91)-5 (これはカーテン無し) では、股間より下の太腿の半ば辺にあり、明らかに少し斜め上の性器を暗に匂わせ、仄めかし、象徴代替しているのであります (実際マグリット自身も、<悪の花>(91)-4 の薔薇を、「肉でできたバラ」(91)-4’ と言っています)。
(このような女性器と花の親和性/形態類似連想で最もよく知られている作品に、ジョージア・オキーフの花の絵(92) やジュディ・シカゴの<ディナー・パーティー>(92)’ があります)。
それにしても、この「鈴を…沢山つけた鉛のカーテン」(90)-3 は、一体何なのでしょうか?……何を表し、何から着想したのか……納得のゆく回答 (具体的な物の名前) は、今のところ何処にも見当たらないのです。
ただ、私はこれに似たものを、一度見たことがあります。それは「ここに掲げることはできない」(93)、お見せしようのない、私の記憶の中の映像です。……それは私が高3 (18歳) の時に癌で死んだ養母(94) の、手術で切り裂かれた腹部の傷口を開いて覗き見た、沢山の泡をプツプツと浮かべたリンパ液のぬめりの下で微かに波打つ濁った鉛色の腐肉の襞でした。
夜、ベッドの脇で母を見守っていた時、傷口のガーゼを取り替えに、その看護婦さんは病室に入ってきました。そして私に「ちょっと手伝える?」と聞いて、母の体を少し持ち上げて体の向きを変え、その姿勢を保たせる手助けを私にさせたのです。それは看護婦としてではない “巫女” としての、母との死別の祭儀に少年の私を与らせようとする好意からだったように思います。
この “私の記憶の中の映像” から類推すれば、この「鈴を…沢山つけた鉛のカーテン」は、“濁ったリンパ液のような川の流れ (に沈んだ母の鉛色の寝間着(79) の表面) に纏わり付いて浮かぶ水の泡粒” ……なのです。
(90) via [https://www.horsenation.com/2015/12/16/everything-you-never-knew-you-never-knew-about-sleigh-bells/]。
(90)-1 [https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-silver-gap-1926]。
(90)-2 [https://wikioo.org/paintings.php?refarticle=9HTKP8&titlepainting=La+maschera+vuota+%28Le+masque+vide%29&artistname=Rene+Magritte]。
(90)-3 via [https://en.wikipedia.org/wiki/The_Empty_Mask]。
(90)-4 [https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-forest-1927]。
(90)-5 [https://www.clevelandart.org/art/1992.298]。
(90)-6 [https://www.facebook.com/groups/PAPArtstore/posts/1444858742782544/]。
(91) via [https://artandthoughtz.wordpress.com/2015/03/15/madame-edwarda-georges-bataille-rene-magritte/]。
また、刊本では前註(10) で二番目に挙げた『マグリット事典』が p.19 右上に図版を掲載しています (なお、ここでは前註(83)-3 に––––更に遠くはフロベールに––––合わせて「マダム」を “夫人” にしました)。
(91)-1 前註(46) で二番目に挙げた1988年『ルネ・マグリット展』図録 p.146, Cat.No.124。
この図版に添えたC・D・クローエスの解説によると––––「彼の作品に常に姿を現わす…薔薇は, マグリットにとって永遠の問いであり続ける. あなたの絵に…薔薇がしばしば見られるのは何故か…と問われて…1947年に次のように答え…る. 『……私はまだその理由を知りません. 多分ずっとのちになれば, それを見つけ出すでしょう』. /…質問した…ジャーナリスト……は, 1967年に同一の質問をして…返事を得た. 『……薔薇が何なのかはまだ知りません. ……』(『マグリット全著作集』pp.250-251).」––––だそうです。
これと同じ––––中央部の花弁が “垂直の合わせ目=割れ目” ––––型の薔薇の花は、水/油彩画では (母の自死に遠く繋がる) 1948年のグヮッシュ画<記憶 La mémoire>(91)-1’ があります (因みに、後掲する同年/同題の変奏油彩画(91)-9 は、首の載る台が木目も顕わな一枚板から切石積みの壁に替り、首の右にあった鈴が左に移り、左にあった薔薇は緑の葉を一枚だけ残して––––残された一枚は移って来た鈴と合わさって<深淵の花>(90)-6 ならぬ “平場の花” と成り––––深紅の花冠は右の同色のカーテンへと変容しています)。
(91)-1’ [https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/memory-1948-1]。
ジャック・ロワザン著, 森耕治訳『ルネ・マグリット 山高帽の男の若き日々』(2025 {原書は2014, Les impressions nouvellers}, アマゾン・ジャパン, p.175) によると––––「 作品『記憶』の由来について問われた…マグリットは友人ポール・サクレにこう説明した。/『あれは全部女だよ。壁に割れ目がある。女にもあるだろう。血の染みがある。…月経と同じだ。それ以上深読みする必要はない』」––––とのことです。
(91)-2 [https://www.flickr.com/photos/188822316@N08/50121303261]。
上掲の J・ロワザン (森耕治訳, pp.189-90) によると–––– (この絵が描かれる4年前の)「一九二〇年の春の日、マグリットは…ブリュッセルの植物園を散歩していた時…ジョルジェット…と再会した…。//…その日の晩 (ジョルジェットが…打ち明けたところによれば)、マグリットは幼なじみに、一輪の薔薇を紙片に描いて贈った。///…やがてルネとジョルジェットは自分たちを婚約者同士とみなし…交際を続けた」––––とのこと。
(91)-3 via[https://flaneriespicturalesenmusee.com/2022/02/magritte-renoir-le-surrealisme-en-plein-soleil.html]。
この (91)-2 と(91)-3 ( , -4, -5 ) の薔薇の花の位置の対比は、サザンオールスターズ1998年アルバム初収の『シー・サイド・ウーマン・ブルース』中の一節 (桑田佳祐作詞) ––––「“愛”という字は真心で/“恋”という字にゃ下心 」([https://southernallstars.jp/lyrics/detail/321/])––––を思い出させます。
(91)-4 [https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/flowers-of-evil-1946]。
この題名は––––(前註(81) で述べた「失われた世代」にも似て)『悪の華』という訳が (著者名のボとドの間の長音-記号と共に) 定着してしまった––––シャルル・ボドレールの1857年初版の同題の詩集のそれを借りたものですが、ここでは “ボドレール” ([https://ja.forvo.com/word/charles_baudelaire/]) と表記し、“悪の花” と訳します。
前者に関しては、私の記憶では、ボドレールの或る邦訳美術評論集中で訳者が指摘しているのですが、その薄手の小冊子を未だ片付かぬ書籍の山から掘り出すことができず、ここではその記憶だけを記すに留め (後日見つけ次第補記し) ます。
❣️見つけました。勘違いして別の本を探していましたが、その “薄手の小冊子” (この点は間違っていなかった) とは、大塚幸男訳編『美と悪と憂愁と:ボオドレエルの言葉』(社会思想社 {現代教養文庫 714}, 1971) で、その「小序」の末尾に––––「Baudelaire はボドレエルと読むのが正しく、上田敏もそう表記している。しかるにわが国では、ボオドレエル (最近ではボードレール) という表記が一般化している。ボードレールでは字面がよくないので、あえてボオドレエルとした」––––と記されています (4/29/2026 補記)❣️
後者に関しては、安藤元雄が、1991年の集英社文庫の安藤訳『悪の華』解説で––––「華…は…精華…精髄…といった連想をもたらすので……もっと即物的に…花…花々…とするのがふさわしい」(p.396)––––と言い (ながら自らは実行せず)、多くの邦訳書中で僅かに京大人文科学研共同研究最終報告=多田道太郎編著『シャルル・ボードレール「悪の花」注釈 (上)(中)(下)』(平凡社, 1988) と、それに加わっていた杉本秀太郎の抄訳『悪の花』 (彌生書房, 1998) だけが、この「花」を採っています。
その多田の編著–(上) の桑原武夫への「感謝の辞」の中に––––「先生は…『花』の字は草が化けるという気分がいいとおっしゃった。……むかしの正字の『華』が俗字の『花』と化した」––––とありますが、精確には、“華” は––––「花の古字」(貝塚茂樹他編『漢和中辞典』角川書店, 1959, p.933) で、その成り立ちは、意/義符の艸冠の下に––––「柳の葉の美しく垂れ下がった形」(同上) ––––と声符の “夸” とが三位合体して––––「草木が垂れ下がるように豪華に咲き誇る姿を描いた象形文字から発展した」(via [https://hakkenkurashi.com/hana-kyuujitai-hana-input-guide/])––––形声文字で、後発の “花” は艸冠の下を、より画数の少ない簡便な単なる声符の “化” (桑原の「草が化ける」は「気分」としての後付けの意/義) に入れ替えて新規/別個に造られた形声文字で、両者は––––「学術的にはルーツの異なる『異体字』の関係」(同上) ––––なのであります。
杉本は上掲書の「後記」で––––「『悪』という…語 <le mal> には『病気』という語義があって…そちらの方を採れば『病気の花』…複数なので『病んでいる花々』…になる。その上、『花』というフランス語…は、葡萄酒の白黴…黴毒疹…婦人の白帯下 (こしけ) にも、隠語として使われ…この含みを持たせ…る…なら…黴毒がこの詩集の題名の仄めかすところとなる」 (pp.179-80, ( ) 内はルビ) ––––と述べており、ボドレール自身も、この詩集の (テオフィル・ゴーチエに捧げた)「献辞 Dédicace」を–––– “(Je dédie / Ces) fleurs maladives” ([https://fleursdumal.org/poem/098]) =「(これら) 病める花々 (を/ささげる)」(福永武彦訳:同編集『ボードレール全集Ⅰ』人文書院, 1963, p.5) という–––– “自己定義” で結んでいます (福永は同書収録のエッセイ「詩人としてのボードレール」p.46 で––––「この『病める花々』は…献辞の中にあって、『悪の華』を倫理的とするならば、これは情緒的に成立し得る題名である」––––と述べていますが、阿部良雄は 1983年の筑摩書房の阿部訳『ボードレール全集Ⅰ 悪の華』解題 p.424, pp.442-3, 註 p.617 で、七つの大罪=「悪」徳を “草のお化け” で表した再版用口絵案の変遷五図像 pl. ⑤~⑨ を傍証に掲げて「病」の方ではなく「悪」を良しとしています)。
因みに、この詩集には薔薇の花は三輪咲いていて、初めの二輪は、初版第18番の「理想 L’Idéal」の中で謳われている「僕の理想の紅薔薇」(以下も含めて堀口大学訳, 新潮文庫, 1953, pp.60-1)、即ち––––風俗挿絵画家のピエール・ガヴァルニ <1804-66> が描く「出来損ないの…さしえの美人//病院向きの…美女…/蒼白いあの薔薇たち」(91)-4’’ ではなくて––––シェイクスピアの『マクベス』夫人とミケランジェロの<メディチ家墓廟擬人像「夜」>(91)-4'’' ––––であり、三つ目は、初版第81番 (風俗壊乱の罪で罰金刑と削除命令が下された「禁断詩篇」六篇の内の一つ) の「呪われた女たち (デルフィーヌとイポリット) Femmes damnées (Delphine et Hippolyte)」の中で喩えられている若き処女 (おとめ) の処女 (しょじょ) 性、即ち––––「(イポリット、わが心よ、…/) お前の初咲きの薔薇 (の、この聖なる生贄を、/)」(福永訳 p.81)––––であります。
初版中最長のこの4行26連詩は、実はこの「初咲きの薔薇 (“premières roses”)」(第7連) 以外にも、<悪の花>(91)-4 に描かれているモティーフを他に三つ、詩句中に含み持っています。一つは––––福永訳 pp.80-3 で「幕 ( “rideau”)」(第1連) /「帳 <とばり> (“voiles”)」(第10連) /「帳 <とばり> ( “rideau”)」(第21連)、堀口訳 pp.322-8 で「帳幕 <カーテン>」(第1連) /「カーテン」(第21連)、そしてオルダス・ハクスリーの英訳でも第21連は “curtain”(カーテン)––––であります。残りの二つは、やはり福永訳の pp.80-1 で「空 (“le ciel”)」と「蒼い水平線 (“les horizons bleus”)」(共に第2連) で、この三つ=「カーテン/空/蒼い水平線」は、どれもマグリット絵画ではお馴染みの舞台装置/背景幕 (“backdrop/backcloth”) であり、また詩の方/側からしても、この詩は––––「『レスボスの女たち』詩篇を形成し、いずれも同性愛を歌う」(福永「解題と注」p.387) ––––三遍 (初版第80~82番) の真ん中で、従ってエーゲ海のレスヴォス島で「カーテン」の向こうに「蒼い水平線」と「空」が広がるのは何の不思議もない……つまり、絵と詩の双方から親和力が働いて類似共通点が生まれている……のであります (以上、< > 内はルビで、仏/英語は [https://fleursdumal.org/poem/180] より)。
(なお、この “les horizons” を地平線ではなく「水平線」と捉え/訳しているのは、この福永の他、上掲多田編著『「悪の花」注釈』の (下)-p.1467 の天野史郎の注釈によれば J.-D. Hubert (, L’ Esthétique des《Fleurs du Mal》, Essai sur l’ambiguïté poétique, Genève, Pierre Cailler, 1953) も居て、彼––––「ヒューバートは, 地平線を水平線ととり, 旅を船旅としている」––––とのことですが、続けて天野が言う––––「青は必ずしも海の青ではなく, …海のイマージュはこの詩には読み取れず, …ヒューバートの説はとらない」––––とした見解には私は大いに異議があります。と言うのも、上述したようにこの詩には “エーゲ海のレスヴォス島” と、加えて天野自身も p.1464 に記している通り––––「デルフィーヌ…の名が, アポロン神殿の巫女による神託で名高いデルフォイに由来するものであ」––––って、デルフォイ (“Delphoi”) もまた (島ではありませんが)地中海に繋がるコリントス湾の近くに位置し、イルカ (“delphis”) とも関連があり、「海のイマージュ」には事欠かないからです。
因みに、この「カーテン/空/蒼い水平線」の三点セットを、手前の主役の “女性 (広義の)” を引き立てる舞台装置/背景幕 (“backdrop/backcloth”) として揃え持つ作品は、最初期 (1925年) の<水浴の女>(91)-6 に始まって、1941年の<雲の切れ間 (凪)>(91)-7 ––––この三美神の内、ヴィーナスは、腰布も巻かぬ全裸で右手にアトリビュート=持物の薔薇の花一輪を掲げ持つ右端か、やはり持物の一つである鳩を左手に掲げ持つ中央か、或いは何も持たぬ左端も含めて三神ともか (?) ––––と、同年の<オリエント>(91)-8 や、(この<悪の花>(91)-4 と同じ) 1948年の<記憶>(91)-9 を経て、最晩年 (1965年) の<囚われの美女>(95)-10 まで続きます (なお、1960年の<ある聖人の回想>(95)-11 は、興味深いことに手前に主役を立たせず、“舞台装置/背景幕=backdrop/backcloth” である「カーテン/空/蒼い水平線」自体を主役に引き摺り出し/引き上げ/引き立てて、その本質を見事に抽出/明示して見せています)。
(91)-4’ 前註(26) に前掲の M・パケ『ルネ・マグリット』p.37 の「悪の華」図版キャプションに付されたマグリットの言葉の引用中に「血の通った彫刻、生きている女の彫刻…は、手に肉でできたバラを持つ」とあります。
(91)-4’’ [https://www.invaluable.com/auction-lot/pierre-gavarni-a-countryside-scene-with-elegant-f-291-c-5704a48b51]。
(図版の枚数制限のため、図版提示は次回 ⑸ の冒頭に回します。)
(91)-4’’’ [https://it.wikipedia.org/wiki/Notte_%28Michelangelo%29]。
(図版の枚数制限のため、図版提示は次回 ⑸ の冒頭に回します。)
(91)-5 [https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/lola-de-valence-1948]。
この絵は、エドゥアール・マネ (1832-83) が1862年にスペインのバレンシア出身のバレリーナであるローラ・ド・ヴァランス (バレンシアのローラ、本名ローラ・メレア) を描いた同題の油彩画(91)-5’ を踏まえています。
マネの絵では、ローラは––––腰に沿って下がる左手に一輪の薔薇の花の柄 (え) を持つのではなく––––左手を沢山の薔薇の花柄 (がら) が表面全面に浮かび上がる黒地のスカートの腰に添え (手首から先は白いレースの肩掛けの下に隠し) ています。因みに上掲のボドレール (1821-67) は、マネのこの絵に四行詩 (この銅版画(91)-5” の下に刻まれている) を捧げています。
大槻鉄男は、上掲多田編著『「悪の花」注釈』の (下) の「禁断詩篇」中の「宝石 (“LES BIJOUX”)」に付した注釈で次のように述べています。
––––「bijou の意味について。ピショワは, ディドロの『お喋りな宝石』Les bijoux indiscrets 以来、二つの意味にとれると言っている。ボードレールは青年時代からディドロを尊敬している。この小説での『宝石』…は…『……女たちは自分の情事を…口でしゃべると思ってはならぬ。…ではいったいどこで語る…。…自分の内なる一番率直な部分, 陛下が知りたいと思われることを一番よく知っている部分…つまり女たちの宝石が語る……』…(新庄嘉章訳)。/この意味は『ローラ・ド・ヴァランス』…に再び現れる (ピショワ)。//Mais on voit scintiller en Lora de Valence / Le charme inattendu d’un bijou rose et noir. //だが, ローラ・ド・ヴァランスのうちには, きらめくのが見える, /薔薇色と黒のひとつの宝石の思いがけない魅惑が。/この詩…に…ボードレール自身の書いた『刊行者の註』が付けられ, これを読むと, ここの bijou の意味の両義性をボードレールが意識していたのがわかる。『…ボードレール氏…は…ひどく疑わしい目で見られ…『薔薇色と黒のひとつの宝石』(bijou rose et noir) のなかに猥褻な意味を見つけ出そうとする酒場の批評家達があったくらいである。…詩人はただ、暗いところも…はしゃいだところもある美女が, 薔薇色と黒の結合を夢想させた, と言いたかったのだ』。… Dictionnaire des argots (Larousse) には, bijou : n.m. sexe de femme 『女性の性器』……が収録されている。」(pp.1413-4) ––––
私もその一人に間違いない「酒場の批評家達」は、さぞかし黒には陰毛を、薔薇色には小陰唇を「見つけ出そうと」したのでしょう。
以上の経緯をよく知っていて、マグリットは意識的に殊更この題名<ローラ・ド・ヴァランス>を選んで付けたと私は推測します。
ところで、上註(91)-4 で杉本は「黴毒」を言挙げしながらそれ以上は言及していませんが、マネも出てきたのでここで触れますと、1859年頃から交友を始めたこの二人は共に若年期に––––ボドレールは21歳頃に、マネは16歳時にブラジルで––––感染した黴毒によって––––前者は39歳で最初の脳充血の発作に見舞われ、41歳で絶えざる眩暈に襲われ、45歳で脳障害による失語症と半身不随で倒れて入院し、46歳で/また後者は48歳時に左脚が壊疽になり、51歳で––––早死にしています (尤も、この二人と限らず、この世紀の末の多くの著名な男性芸術家が……例えば文学 (広義の) ではフロベール (1821-1880) やニーチェ (1844-1900) が、美術ではゴーガン (1848-1903) が……文字通りのこのせいきの病に罹患していたとされています)。
(91)-5’ via [https://www.wikiwand.com/fr/articles/Lola_de_Valence#/media/Lola_de_Valence|Fichier:Lola_de_Valence_(1862)_-_Edouard_Manet_(Musée_d'Orsay,_Paris).jpg]。
(91)-5” via [https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/07963/]/[https://collection.nmwa.go.jp/G.2020-0170.html]。
(91)-6 [https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/bather-1925]。
(91)-7 [https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-break-in-the-clouds-the-calm-1941]。
(91)-8 via [https://flaneriespicturalesenmusee.com/2022/02/magritte-renoir-le-surrealisme-en-plein-soleil.html]。
題名の “L’Orient” は、ルーヴル所蔵のギリシャの壺(91)-8’ に似た壺の形や、岩に倚る神話的な裸婦から推してギリシャを指す意味と考えます。
(91)-8’ [https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Oedipus_sphinx_Louvre_G417_full.jpg]。
(91)-9 [https://www.flickr.com/photos/allan_harris/35983752436]。
(91)-10 via [https://www.myreviewer.com/DVD/120181/Le-Belle-Captive-The-Beautiful-Captive/120182/Review-by-Curtis-Owen]。
(91)-11 [https://www.flickr.com/photos/monceau/30579697714]。
(92) via [https://kamnakirti.substack.com/p/the-metamorphosis-of-flowers-into]。
このオキーフの<黒いアイリス Black Iris>は、その25年前に刊行されたジャン・ロランの小説––––『フォカス氏』(篠田知和基訳, 月刊ペン社 {妖精文庫–30}, 1981 {原書 [https://fr.scribd.com/document/736663774/Monsieur-de-Phocas-Astart嶱-Lorrain-Jean-Bpt6k82689b?query=] は1901}) ––––の中で、「二十のころは、幾分なりと詩人だった」(p.166) 主人公のド・フォカス氏ことフレヌーズ公爵が、“iris noirs” (上掲原書 p.323) 即ち「黒鳶尾 <いちはつ> を讃えて試みた」(上掲訳書 p.166, < >内はルビ:引用者補記) という以下の詩を想起させます。
––––「死の杯のように咲く~~/ 誇らかな黒い鳶尾、…/不安と夢の花、恐ろしい欲望/その闇の茎をふくらませ、心ゆくまで/ふしぎに重たい生命の種に震えさせる。/おまえは満ち足りず、もだえて生きる。///その冷たい心をゆるやかな死が包み込む/おまえは残酷でありたくみであり、/おお、月とビロードの悲しい花よ////責め苦の庭の膨れあがった花、私の魂はお前の魂の同胞であり、/驚くべき愛にとりつかれた夢の共犯者」(同、但し “~~” は紛らわしい説明が必要なので私が省いた言葉です) ––––。
因みに、この詩はマリオ・プラーツが、上の私の抜粋引用以上に抜粋して『肉体と死と悪魔:ロマンティック・アゴニー』(倉智恒夫他訳, 国書刊行会 {クラテール叢書1}, 1986 {原書は 1930初/1966}) で、以下のように引用しています (私がこの詩を知ったのも、この後者によってです)。
––––「死の杯のごとくひらきたる縮みの円錐花序~~/…………/おお、月とビロードの悲しい花よ、/…………/責め苦の庭の膨れあがった花よ、私の魂は恐ろしい情欲にとりつかれた夢の、/妹と共犯者を、お前たちのなかに見出す」(p.721-註97、“~~” は上に同じ) ––––。
実は、この黒いアイリスが小説中で最初に登場するのは (但し象徴代替物として) ––––「自分で言うところでは、ギリシャの名家の出だと言う/レバノンかどこか/近東のユダヤ人だと思う/フォリー (ベルジェール) の新しい踊り子 」(前掲『フォカス氏』p.32) ––––で––––「一輪の巨大な花/ギュスターヴ・モローとギュスターヴ・フロベールのサロメ……のイメージ/イゼ・クラニル」(同 p.33) ––––の楽屋の––––「椅子の上にぼろ屑のように横たわっていた/五分前には彼女を黒い花びらの花としていた…黒サテンの衣装」(同 p.34) ––––で、この楽屋訪問の数日後に夕食を共にした (だけに終わった) 翌日、氏=公爵は彼女に ––––「ピンクの真珠をふたつ、お別れのしるしに黒鳶尾一束をそえて送ってやった」(同 p.37) ––––のです。
つまりこれは明らかに (あからさまには)、殊更に色がピンク=薔薇色で二粒である真珠= “deux perles roses” (上掲原書 p.58) は––––それを耳飾りにして付けるフェルメールの耳朶などではなくて、『半獣神、古代英雄詩風幕間劇』第一場=浄書版独白 (1865/73-4) の冒頭でマラルメは「ルビー」に喩えた––––乳首の、また、黒鳶尾= “iris noirs” (同) は女性器の、各象徴代替物だと言えるのです。
詩中にある「責め苦の庭」に関してプラーツは、詩の引用直後に––––「ミルボーの『責め苦の庭』は一八九九年に刊行された」––––と記して、二小説間の先後関係を示唆するのみに留めていますが、『フォカス氏』を訳した篠田知和基が、この (ボドレール同様に美術批評も物した) オクターヴ・ミルボーの『責め苦の庭』の方も訳していて (国書刊行会 {フランス世紀末文学叢書⑤}, 1984 {原書 [http://www.leboucher.com/pdf/mirbeau/jardin.pdf] は1899})、作中「いちはつ “iris” 」への言及は6カ所あり (訳書 p.138, 183, 185, 208, 255, 258/原書 p.124, 154, 156, 172, 204-5, 206) 、内、黒いそれは一箇所––––「ビロードのような黒 “noirs de velours”」(訳書 p.255/原書 pp.204-5) ––––のみです (この「ビロード “velours”」という形容も、公爵の詩の中の「月とビロードの…花 “fleurs de lune et de velours”」に先行しています)。
しかし、それ以上に興味深いのは、この責め苦の庭で––––「蓮やいちはつの茂った池に月が照って、その上の夜空を雁が飛んでゆく図柄」の「みごとな漆絵が描かれ…た」責め具の鋸を容れる「小粋なつくりの/道具箱」(訳書 p.208/原書 p.172) ––––を持った中国の処刑人が発する以下の言葉であります。
––––「『(前略) 花っていうのは性器だけじゃないか、……。(中略) このすばらしい花びら……この絹、このビロード、この柔らかくて滑らかであったかい布きれ……これこそ寝室のとばりだ、婚礼の床の敷布だ、性器と性器があわさる馨しい床だ、(後略)』///////それからふいに道具箱をとって立ちあがると、弁髪を歪めたままお辞儀をして花壇を踏んで立ち去っていった」( (訳書 pp.219-10/原書 pp.179-80) ––––。
(92)’ via [https://www.dailyartmagazine.com/dinner-party-chicago/]。
(93) ロラン・バルトは『明るい部屋:写真についての覚書』(花輪光訳, みすず書房, 1985 {原書は 1980}, p.89) の中で、彼の母が5歳の時 (1898年) に7歳の兄と並んで撮った「温室の写真」に言及し、しかしそれを––––「ここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しない…。……それはいかなる点においても…科学の…対象とはなりえず、…客観性の基礎とはなり得ない。……読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである」––––と述べています。
(94) 私の伯母で養母の小林ムメ <1908-67> の––––茨城のり子 <1926-2006> の「わたしが一番きれいだったとき」のお見合い写真(94)-1 にも似た––––若き日のポートレートです (撮影者/場所/日時ともに不明)。
(94)-1 via [http://asacoco.jp/topnews/武蔵野に佇む詩人の家/](写真),[http://www.paw.hi-ho.ne.jp/n3tomoko/pooh/txt-wata.html](詩)。
津田塾大学創設者の津田梅子も初名は「むめ」ですが、私の養母の名は––––彼女の姉 (私のもう一人の伯母) で藤原家の長女タケノ <1900-80> の話によると––––本当は (若死した長男に松の字を付けたので次は→) 竹→梅の順でウメなのですが、出生を届け出た祖母が歯無しでフガフガと発音したため、戸籍係が聞き間違えたというものです。
このムメと夫の新次郎 (私の養父 <1907-75>) 夫妻(94)-2 の間には子どもが無かったため、私は養子として貰われ––––戸籍に記された養子縁組届出/受付/入籍は1956=昭和31年2月ですが––––前註(89)-1, 2, 3 で前述したように “昭和30 <1955> 年には東京都文京区小石川久堅町で暮らし始め”、翌年3月に (家から徒歩1分の) 光圓寺の住職が園長の明照幼稚園を卒園し、4月に文京区立礫川小学校に入学––––上記の入籍はこれを “目前に控えて”––––しています。
(94)-2 日時は撮影者/場所とともに不明ですが、恐らく婚姻を届け出た1938年 (ともに30歳) 頃と思われます。
1953 (昭和28) 年の7月16日に室蘭の写真館で、この4歳2ヶ月と2歳9ヶ月の写真(94)-3 を撮った後、どのくらい後かは分かりませんが、二人はタケノに手を引かれて、東京のムメの許へと連れて行かれたのでした。父正雄(89)-4 <1910-79> と母ミツヱ <1919-91> の婚礼写真(94)-4 と見比べると分かるように––––弟は母親似 (母方の佐々木の家系の顔)/私は父親似 (父方の藤原の家系の顔) で––––ムメが私を選んだ一番の理由は、自分に似ていた……似ていれば私も世間も母子関係を疑わないし、母と子は互いに違和感無く懐き易い (と考えた)……からだと思います。
(94)-3 日付と年齢は写真に裏書きされていますが、撮影者/場所は「室蘭の写真館」とのみ我が家に伝わっています。
(94)-4 父正雄(89)-4 <1910-79> と母ミツヱ <1919-91> の婚礼写真ですが、日時は撮影者/場所とともに不明です。
加えて弟は当時、丁度「イヤイヤ期」の真っ只中だったからなのか、利かん気で、気に入らないことや嫌なことがあるとギャン泣きして地団駄を踏み、足をバタつかせて地面を転げ回って梃子でも動かず、通行人が面白がって「おう!威勢のいい若衆だ、もっとやれ~もっとやれ~」と囃し立てると増々激しく泣き叫んだそうです。その上更にムメの機嫌を損ね怒らせたのは、小石川の家の玄関に掛けて飾ってあった<舞楽面:蘭陵王>(94)-5 の模造品を見上げる度に「おっかねぇ~~」と泣き喚くことでした。……そういうわけで、近所の人が「ちょっとでも幼い方が懐きが良い/早いよ」と進言しても、“とてもじゃないけど、やってられないわ” となったのだと思います。それに引き換え私の方は「惣領の甚六」よろしく大人しくておっとりしていて従順で、「これがお前の本当のお父さんとお母さんなんだよ」と言われると、さして疑うことなく “そうなんだ……” と納得しているわけです。
(94)-5 via [https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/486892]。
大人になってから聞いた母の話では、弟は四六時中「あんちゃん、あんちゃん」と私の後を追いかけていたそうで、ある時、小橋内の近所の家で女性たちに可愛がられている私を探しにやってきた弟に、女性陣が私を隠して「居ないよ」と言うと、弟は「クックが、クックが」と口を尖んがらせて玄関に脱ぎ残されてあった私の靴を指差したそうです。
やがて、忘れもしない上野駅で、この弟をこの兄から引き剥がす別れの時がやってきます。「一緒に帰るんだよ」と言われて乗り込んで座席に座った青森行きの列車が動き始める直前に、私だけが……その部分の記憶が曖昧なのですが、多分タケノがその場で助けを頼んだ男性であろう誰かの手で……抱え上げられ、客車の引き上げられたギロチン (上げ下げ) 式の窓の下側開口部から、ホームで待ち構えている––––多分ムメが頼んだ (これも記憶が曖昧な) 手近の男性であろう誰かの––––手へと受け渡されたのです。走り始めた列車のピシャリと降ろされたギロチン窓の向こうでは、さぞかし弟が泣き叫んでいたことでしょうが、ホームで見送った私には、ただ何かの面白い遊びにしか思えなかったという記憶が残っているだけです。
長男ではなく次男が返されてきたことに対して、父は「普通は長男は獲らんだろうに……」と呟いたと聞きます。前註(89)-1,2,3,4 で父を “独学” (の日本刀研ぎ師) と紹介しましたが、それは例えば本阿弥家に弟子入りして修練を積んだというようなわけではないという意味で、師が無かったということではありません。父の師は、あの戦艦大和の砲身を造った日本製鋼所室蘭製作所が1918 (大正7) 年に「近代化により衰退していた日本刀の製作技術向上と保存のため…鍛刀所…を開設し」(via [https://ja.wikipedia.org/wiki/日本製鋼所室蘭製作所])、その長として「招聘により入社し渡道」した堀井俊秀 <1886-1943> で、彼はその5年前の1913 (大正2) 年に「刀剣保存会より水心子正秀の秀の字をとった…名を贈られる……昭和前期を代表する刀工」(via [https://ja.wikipedia.org/wiki/堀井俊秀]) に他なりません–––– (拙稿 [https://kobayashimasahide.tumblr.com/post/139043244015/views-of-my-studiolocabinet-of-curiosities] の最初の写真の上辺に写る「剱 磨 練 膽/昭和丁丑 (ひのとうし=S.12=1937年) 秋/為藤原君/俊秀書」と墨書された「為書き」の有る扁額は、この師が父に書いて下さった「進道語」であります)。
つまり私の名前の「正秀」は、父に (刀鍛冶自身による鍛治研ぎから始まる) 日本刀の研磨というものを教えた師が更に遥かに師と仰ぎ倣う幕末の刀工にして復古刀 (“古の刀に帰れ!”) 提唱の理論家/著述家/教育者でもあった「水心子正秀」から採った名前なのです。それが藤原正男/雄の正と堀井俊秀の秀の組み合わせでもあることや、水心子が––––「江戸期の刀工には…圧倒的に多い」(via [https://nihontoukaitori-hikaku.info/column/lastname/]) 賜姓の藤原を苗字に使って––––「藤原正秀」という銘も切っていたことや、その出生地が恵子と同じ「羽州米沢藩領」(via [https://ja.wikipedia.org/wiki/水心子正秀_(初代)]) だったこと等は不思議な偶然の縁ですが、父がこの名前に “自分の跡を継ぐ長男” への思い (願い/希望/期待/感謝…) を込めていたであろうことは不思議でも偶然でもありません。
にも拘らず、この養子縁組を受け容れ (ざるを得なかっ?) たのは、やはり経済的理由が一番ではなかったかと思います。……父があの戦争を生き延び得たのは刀の御蔭–❶ でしたが、戦争直後に経済的困窮に突き落とされたのもまた刀のせい–❷ でありました。
❶は、先祖伝来/家宝の「武士の魂/伝家の宝刀」を軍刀拵えに仕立て直して出陣していた (特に旧士族の出の佐官クラスの) 将校にとっては、そうそうは居ない刀の研ぎ師の兵卒は文字通り “魂/宝の護り手” で、手許に置いておきたい/手放したくない重宝者だったわけです。御蔭で父は、そういうお偉いさんに気に入られて––––これは本当の話かどうかは分かりませんが––––南方に送られる途中で撃沈された輸送船に乗せられた所属部隊の内で父一人だけが外されたと聞いています (因みに、その父の代りにでもあるかのように、私が南方沖縄に強いこだわりに取り憑かれて飛行機ではなく船で赴任したのも、また不思議な因縁と言うしかありません)。❷は言うまでもなく、GHQによる「刀狩り」のためです。
酷い話ですが (当時はよくある話) 見合いの日に都合が悪くて代わりに妹を行かせた母が––––更に酷いのはその妹を見て気に入った父がそのまま姉の方と結婚した!––––小橋内町の父の家へ初めて本人として挨拶に行った時、正座して三つ指突いて頭を下げた拍子に、小さくて軽い母は腰が浮き、勢い余ってクルリと前方一回転、婚家の皆様のお膝元ででんぐり返った––––それほど床が傾いていたオンボロボロ家だった––––そうです (前掲の写真(89)-4 の家は、暮らし向きが少し良くなって引っ越した中央町の老舗菓子店裏路地の二階付き借家です)。この話を、明るくひょうきんだった母はケラケラ笑って話してくれました (私の剽軽な性格は、この母譲りです)。戦後暫く研ぎの仕事など無かった父が、では何を生業にしていたかと言うと、飴を引いて売っていたそうで、母との婚礼の日も、披露宴の席を外した新郎が別室でセッセと引き出物の飴を引き––––当時は甘い物はとても有り難かったので––––ご列席の皆様に大変喜ばれたそうです。
この暮らしぶりに比べて、姉夫婦は東京のド真ん中に土地と家を持ち、新次郎は––––京橋宝町の家具問屋の長男に生まれ育って1924 (大正13) 年に東京府立第一商業学校を卒業し、一時家業に従事してから1931 (昭和6) 年に銀座松屋 (の家具部) に就職し、1943 (昭和18) 年に応召して北支に赴いた後、1946 (昭和21) 年に復員/復職して––––昭和30 (1955) 年には、このお洒落で華やかでモダンな街の一大デパートメント・ストアの課長として、安定した給与と出入り業者からの沢山の御中元・御歳暮を得ていたのです (父はやがて部長に昇進しましたが、よく母が「部長になったら給料は上がったけど、盆暮れの付け届けは現場に近い係長や課長の時の方が多かったわ」と文句を言っていたのを覚えています)。
これに引き換えミツヱの方は、夫の正雄……には無論のこと、その後ろで養子縁組を圧し進める勝気で気の強い義姉二人の “竹梅連合”……に口答えなど出来ようもなく、一体どんな気持ちだったのか、幼い兄弟の写真(93)-2 を見ながら嬉しそうに誇らしげに笑って言った––––「この写真はね、室蘭の写真館のショー・ウィンドーにず~っと飾られてたのよ」––––という言葉の中に、母も言わず私もまた聞きはしなかった “悔恨” のようなものが、滲み混じり隠されているように感じます。
この実母から私を “略奪” した養母のムメは、そのことへの負い目と引き取った責任とプライドから、私を人一倍厳しく躾け育て、死の間際にそれを詫びて逝きました。私は彼女の人生の最後の12年を––––マグリットの場合は物心が付いて以後の、これとほぼ同じ長さの年月を実母と––––共に過ごしたわけです。彼の方が私より (遥かにヤンチャでマセてもいましたが) 4 歳も若く、加えて母は病死ではなくて自死だったわけですが、私との一番の違いは、彼が母を自死に追い込んだその傷付け様の酷 (ひど) さ/惨 (むご) さ–❶ と、そしてその報いとしての自身の傷付き様の深さ/痛さ–❷ にあります。
❶ に関しては、前註(91)-1’ に前掲の J・ロワザン (森耕治訳) が聞き取った、当時同じグラヴェル通りに住んでいたマダム・コラールの証言に続く以下の記述 (pp.15-6 & p.73) から窺い知ることができます。
––––「マダム・コラール…の兄…は、少年時代のマグリットと親交があった…。/…私を…迎えた彼女が最初に放った言葉は『ルネ・マグリット、あの子、どうしようもなかったわ』//『手に負えない…子でね、お母さんが自殺するほどだったのよ』//『この辺りでは…マグリット一家は「チョーキ」tchaukî だって言われていたのよ。…つまり悪魔に取り憑かれているってこと。何をしでかすか分からない、特にルネはね』」(pp.15-6) &「『彼らは母親にひどいことをしたのですよ』/『色々な嫌がらせをして、さんざん苦しめたんです』/ …何人ものシャトレの住人が、母親を死へと追いやった加害者として、三人の…兄弟を指し示した。/…兄弟たちの振る舞いが、意図的に母を絶望へと追いつめたというのである。///例えば、近所の者が戸口のノブや呼び鈴の紐に糞が塗りつけられているのを見つけて憤慨した…が当の…兄弟たちは、それを屋根の上から見て大笑いしていたというのだ。/さらに、母親にとって大きな絶望であったのは、ルネ…が公然と通りでカトリックのミサを茶化して執り行っていたことである」(p.73) ––––。
後者の “茶化しミサ” に関しては、それこそ、この約半世紀後の1952年に、同じ名前のルネ (・クレマン) 監督によって撮られた映画<禁じられた遊び Jeux interdits>にも似た、子どものたわいもない模倣遊び (見立て/ごっこ遊び) のようにも見えます。事実、ロワザンが伝える「ルネ…の幼馴染み」(p.62) のレイモン・ペトリュスによれば––––「宗教を…からかっていた…だと。とんでもない。あいつは本気で信じていたんだ。……ちゃんと祈りの仕草や言葉を使って、真剣にミサをやっていたんだよ。/……私は、あいつは本気で司祭になろうとしているんだと思っていたよ」///「結局、そういうことのせいで、あの界隈じゃ彼ら一家は…見下されてたんだ。/でも…彼らだって他の人と同じだったんだ。ただ、しつけが悪かっただけだよ」(同 p.51) ––––ということです。
いずれにせよ、私のようなカトリックどころか如何なる信仰も持たない無神論者の日本人にとっては、この「ミサごっこ」(同 p.50, p.51) の冒瀆性は今一つピント来ないものですが、この信仰篤き母を最後に川に突き落とした決定的な一突きの方は、日本の切支丹弾圧を知る私たちにも容易に理解できるもので、それは––––以下に引用する彼女の従姉妹の義娘の証言が伝えている–––– (“茶化しミサ” /「ミサごっこ」よりも) 遥かに汚辱的で暴力的な瀆聖の所業だったのです。
––––「家に遺体が運ばれてきた時、義母が見舞いに行ったんです。…//義母は子供たち三人を一つの部屋に呼び寄せて、こう訊いたんです。『いったい、何があったの』/すると答えたのはルネでした。/『父さんがやらせたんだよ。ママの目の前で十字架につばを吐けって』」(同 p.81) ––––。
ロワザンはこの引用の直後に、❷ の一例とも見做し得る––––(❷ に関しては、以前に私は、例の捲れ上がった寝巻きで顔が覆われていた発見時の母の溺死体について論じた箇所で、 “この件に関しほぼ完黙を貫くルネ” とだけ書いておきましたが) ––––よく知られた十字架を巡るアンドレ・ブルトンとの悶着の一件を書き繋いでいます。
––––「この言葉 (十字架に唾を吐け:引用者補記) が記憶に焼き付いた…私はベティ・マグリット (ルネの末弟ポールの妻=ルネの義妹:引用者補記) から聞いた、ある出来事を思い出し…た。/ルネとジョルジェット…がパリに住んでいた頃、ある晩…シュルレアリストたちの集まりに参加した。そこにはアンドレ・ブルトンもいた。/その席で、ブルトンはジョルジェットの首にかけられた十字架を見とがめ、非難の視線を送ったという。/するとルネは、即座に席を立ち、妻に向かってひとこと『帰るぞ』とだけ言い放った。/ジョルジェットの証言によれば、この一件がきっかけとなり、夫妻はベルギーへ帰国する決断を下したのだという」(同) ––––。
明らかにこの時のジョルジェットは、ルネが死に追いやった母の、そしてその十字架を咎めたブルトンは、かつてそれに唾を吐いた己れの、それぞれの鏡像であり、決然と席を立っての退室は、守ってやるどころか死へと追いやってしまった過去の自分の罪に対する償い (代償行為) だったと言えます。
ロワザンが自著について––––「本書全体が、画家自身の意図とは逆に、彼が否定した幼少期を再発見することを目的としている」(同 p.23) ––––と語るように、ルネは––––「自身の著作や…語った…話の中で、幼少期に触れることはほとんどなかった。…//一九四六年……次のような質問が提示された。/『あなたが最も嫌うものは何ですか』///マグリットの回答は、次の一文で始まっている。/『私は自分の過去と他人の過去を憎んでいる』/この姿勢は一貫し…ルイ・スキュトネールの証言は、それを如実に示している。…/… (中略) …/『思い出すことさえできないようだった。…』…/『父親の名前すら思い出せなかったんだよ。「レオン、いやレオンじゃない。フランソワ、違うな」といった具合にね。正しい名前、レオポルドを思い出すまでに、少なくとも十五分はかかっていた。…』/…… (中略) ……/マグリットが過去に抱いていた憎悪は、彼が生まれ育った土地への嫌悪となって表れ…彼はシャルルロワの地方に足を踏み入れることを忌み嫌っ…た」(同 pp.23-4) ––––。
私は以前に–––– “母レジーナ……<秘密の競技者>(66)’ の戸棚/箪笥に閉じ込められているのも彼女……の自殺防止拘禁の姿だ……。/事実、H・アダッドは前掲書(59) の本文 (p.9) で、レジーナが鬱病を発症して––––「地下の貯水池に身を投げようとした…最初の自殺未遂」––––以後も度々未遂を重ねたので、父のレオポルドが––––「念のため, 夜になると末っ子のポールといっしょの部屋に彼女を閉じ込めておいた」––––と伝えています” ––––と書きましたが、ロワザンの聞き取り調査は、それどころではないレオポルドの––––息子のルネですらその名を記憶から消し去ってしまったほどの–––– “人でなし” 振りを伝えているのです。
––––「マダム・コラールの息子ジョン…//…は…口を開いた。/『…母が何度も私に繰り返したこと…。/マグリット夫人は苦しんでいた。…なぜなら、マグリット家の子供たちはあらゆることをやってのけ…悪巧みをし、父親までそれに加担していたのです。…夫人を地下室に閉じ込めて、彼女が明かり取りの鉄格子にしがみつきながら、「助けて、助けて」と叫んでいた。/…』//私はこの件について、レイモン・ペトリュス (先の「ミサごっこ」でも引用した「ルネ…の幼馴染み」(p.62):引用者補記) に直接問いかけ…た。/… (中略) …/『彼女は以前にも井戸に身を投げて自殺を図った……』/…さらに…貯水槽に身を投げて自殺を試みたこともある…。/『だいたい、あの晩どうして彼女がポポルの部屋にいたのか、お分かりですか』…/『だって、マグリット氏はあの人を何度も閉じ込めていたんだよ』//『…彼女は抑うつ状態だった。なぜかって、それは……』//『…旦那が、何日も何日も彼女を子供たちと一緒に置き去りにして出ていく…からさ。女遊びに走って金を使ってね。/浮気だって山ほどあった。マグリット氏は、ひどく無神経な男で、妻をまったく大切にしなかった…』」(pp.74-5) ––––と。
前々段落冒頭で引用したアダッドは、同じページ (前掲書(59) p.9) で、マグリットが「年をとってからある友人への手紙で…打ち明け」た言葉を紹介し/続くページ (同 p.10) で、次のように少年時代の章を結んでいます。
––––「私にはずいぶんひどい思い出が一杯ある. …私には……悔恨があるばかりだ」/「母の死によって, 彼は画家になった. ………恐怖に捕らわれ…うめき, 夢と苦悩に襲われる寝床を恐れて若い頃は衣服を重ねた上に眠ったマグリット……には悔恨しかなかったのである」––––。