平成23(2011)年3月11日。
14年前のあの日、信じられない光景を呆然とテレビで見てた。
そして、何とかしなければと立ち上がった人たちがたくさんいた。
山崎パンとクロネコヤマトの話は知っていたけど、大阪市営バスは知らんかった。
一昨日、X(旧Twitter)で流れてきた記事で初めて知った。
「雨しか降らない、綺麗な道しか走ったことのない世間知らずのバスが、
凍ったり割れてたり瓦礫でガタガタの過酷な道を
なにくそと頑張って、待つ人のために走り抜いた。」
大阪市交通局(バス部門は現・大阪シティバス)の支援は大きな話題を呼びました。
仙台市からの支援要請が大阪市交通局の現場に届いたのは震災当日の18時。
職員らは即座に大阪市の支援物資を積み込み、運転手を手配したものの、
時間が遅く官公庁への承認をもらうことができなかったのです。
当日は金曜日、次に開庁するのは月曜日です。
しかし、テレビやラジオから聞こえる被災状況は深刻さを増すばかりで、
すぐにでも出発すべき状況でした。
翌3月12日には2台の市営バスが、東北に向けて出発しました。
担当者は「帰ってきたら、一緒に怒られましょか」
のひと言で、運転手を送り出したそうです。
車両の構造上、高速道路を走れない市営バスは、
大阪から約600kmの道のりを一般道で北上し、
翌朝4時に仙台市宮城野区へ到着します。
支援物資の乾パン1万食と毛布8000枚は、拠点から避難所に配送され、
乾パンはその日の朝食として提供されました。
このとき大阪市交通局から派遣されたバスは、のちに無償で岩手県釜石市へ譲渡され、
工事関係者の輸送手段として数年にわたり使われたそうです。
東日本大震災 | 乗りものニュース
この大阪市営救援バスの後日談を you tube で見つけました。
月曜日に運輸支局に大阪市交通局の幹部が出向いて
緊急事態だったので許可なく区域外運行をしましたと謝罪したところ
運輸支局は全く問題視せず、次もしも何かあった時は連絡だけは入れてくださいとだけ伝えて
区域外運行の届出書の提出を要請、其れで全て終わったそうです。
路線バスの場合、運行地域が定められているのでそれ以外の地域を走る場合には
国交省の許可が必要になります。
幹部が出向いたときには、発行済みの「大阪市長(当時は平松氏)の正式命令書」
の控えも持参していたそうです。
バスの運転手が被災地に着いたときにも、
大阪市長の直筆署名&公印が押された区域外運行許可証がFAX済みで、
被災地の自治体にも、運輸省がら事実確認の聞き取りがあった場合の協力要請のお願いも、
大阪市長名で依頼されていたそうです。
(この場合、交通局の幹部も運転手も罪に問われない。罪になるのは、市長だけになる)
市長名義の業務命令書で
『支援物資を迅速に運ぶのに適した方法を取る事を、市長の権限で認める』
と書かれていたそうです。
同時に自治体に当てた支援物資のリストにはバス一台。とも書かれていたとか。
この時点で路線バスを運転して高速道路を走ったとしても
『市長の許可の下、市長命令に従っただけ』なので、
地方公務員法の規定により、運転手は処罰対象にならない。その上司も処罰はされない。
運輸省や自治省が処罰できるのは『大阪市長本人のみ』 で、
普通はそんな命令は文章化しないそうです(口頭だと後で言い訳ができるから)
この件に関しては、監督官庁も仕事が迅速でフォローが行き届いていたので、
おとがめ無しとなりました
(ついでに、支援が迅速に行なわれるように提言も提出されていて、役に立ったそうです)
何しろ、震災翌日の未明に、現地に第一陣の物資が届いてますから。
他に物資を届けてたのは、青森県ぐらいだったらしいです
大阪ガスも仙台市ガス局の応援に行って、
コテコテの大阪弁で各家庭を回ってガス漏れチェックしていたそうです。
山崎製パンの支援食糧を積んだトラック、翌日には宮城、福島の避難場所にて無償提供されました。 翌日だけではなく、避難所が閉鎖される11月までの8カ月間に、
パン約1500万個、おにぎり約800万個、飲料約100万本などが山崎製パンから提供されたそう。
「ヤマザキ春のパンまつり2011」が東日本大震災で不平等を生まないため、
延期させていただきます」とお知らせがあったんやって。
何かあった時のパンの配布はドライバーの判断に任せてるらしいです。
災害や大雪で道路不通になり輸送困難になった時は、
積荷のパンを同じく立ち往生していた人たちに配ったりとか。
緊急食糧支援をする為の体制を全国で作り上げていますし、
国から支援会社の指定もされてます。
自社でトラックを保有してるから、どんな所にも支援に行けるのが強みだそう。
Xで見つけた言葉
「店がどこも開いてない中 避難所にパンが毎日届きました。
食べ物がある安心感 今でも忘れていない。 山崎製パンさんには 今でも感謝しています。」
「東日本大震災の時に外食企業に勤めていましたが、
ヤマザキパンさんは被災地にパンを送るため工場の製造も配送もそちらに向けるので
通常納品できないと連絡がきました。
その時ヤマザキパンさんの起業姿勢を初めて知って皆で凄いねえと感心していました。」
「東日本大震災のあと、ヤマザキパンのトラックを見たとき、わたしたちは助かるんだと思いました。」
クロネコヤマトのネットワークが復旧するまでは10日を要したそう。
社員たちはできることを探し、実行に移していた。
避難所に食糧がないと聞けば、農家などから米を入手して、おにぎりの炊き出しをおこなったり、
役所にボランティア登録をして救援物資の仕分けをするなど、自治体や自衛隊と協力。
物流のプロとして、積み上げてきたノウハウを惜しみなく注ぎ込んで、
物資の分類、在庫管理、配送計画の決定、そして、配送も担った。
支援物資だけでなく被災地で出た「お地蔵さんを運んで欲しい」という依頼にも
美術品輸送の特殊車を出して無償で対応した。
この話が広がりヤマトは美術品も運べることが知られ、国内シェアが低かった美術品輸送部門が伸びたとの事。
荷物をお届けする先の家が津波で流されていたら、普段の会話から知り得ていた、
高台にある親族の家や避難所まで荷物を運び、お届け先の相手を捜し、
きちんと手渡しをして配達を完了させていた。
岩手主管 支店長が受けた指示は、
「とりあえずやってみろ」、「困った人がいたら助けろ」
のふたつだけ。
宮城主管支店長は、それが使命であるかのごとく人助けする社員を誇らしく感じていた。
「ヤマトは我なり」の実践がそこにはあった。
2011年8月の「ほぼ日刊イトイ新聞」で
ヤマトホールディングスの当時の社長さんと糸井重里さんの対談記事を配信してます。
リンクを置いておくので、興味のある方は読んでみてください。
ほぼ日刊イトイ新聞 - クロネコヤマトの DNA
(あの日、立ち上がった熱い人たちがいた | 花菜のブログから)
東日本大震災 全国から駆け付けた「支援バス」その後 関西のバス いまも東北を走る - (2) | 乗りものニュース
























