金曜日の晩に、近親者がひとつ、困難を乗り越えてくれた。待機していた私の方に、思いがけない重さと軽やかさ、人間としての質量、この世の居場所、生きている——そんな感覚が与えられ、驚いている。ふと、4年前に発表した文を思い出す。媒体も、もうない。現在はまた違う考えを持っているけれど、載せておきます。
未生の生命——ユング『死後の生命』による——
矢田 真麻(2021.10.26)
独自性と限界とは同義語である。
それら無しには、無限性の知覚は不可能である。
あと少しで三十四歳になる頃、不思議な経験をした。それが遠ざからないうちに書く糸口を掴みたいと、定期的に思い出すよう努め、友人たちにも話してみた。いつもならばそうした態度が先行する書物や類似の思考を自然と呼び寄せてくれるのだが、この件については当初得たふたつの直観から一年半、不動のままであった。ひとつは、『ユング自伝』中の「死後の生命」に極めて近しいことが書かれているが、自分が直面したのは死ではなく誕生にまつわる経験だということ。もうひとつは、宗教家や為政者の生き死にに際し、よく似た経験を能力として発揮する者に出会ってきたはずで、しかし半ば人間でなく、精霊に近い感じがすることであった(たとえば、誕生を予言し祝福や呪いを与える妖精の伝承は各地にある)。
あるいは個人的に語り終えるまで、惑わされぬよう無意識が関連情報を遮断しているのかも知れないと、それを解除すべく公立図書館のレファレンスサービスへ問い合わせてもみたが、やはり該当するような個人の経験について書かれたノンフィクションの本は見つからなかった。彼らが参考にと送ってくれたのは、いずれも血縁者を中心に、親しい人たちの間で予知が生じるケースで、妊娠したこと、あるいは出産が予定よりも早まったことを察知するに留まっており、それ自体興味深くはあるものの、ある決定的な遠さが欠けていた。
以上のことから、私は自分の経験を「死後の生命」に即しつつ語ってみようと思う。なお、「」内はすべて同書からの引用である。
生前の世界について……いや、生前とは亡くなった人の存命中の姿を指すのであれば、未生の世界と呼ぶのが適切だろうか。ユング「死後の生命」にならい「お話を物語」ろう。彼はすぐにそれを「神話として話す」と言い換えたが、私にとって「お話」は単にお話である。彼が死後の生命に関する「神話」に「神人同型説的な投影という疑いもない価値」を認めるところから出発したのと対になるように、私は未生の生命に関するお話には、虚構の人物との関係を問うという「疑いもない価値」があると考え、書き進めてみる。つまり、登場人物と実在する人物との相互作用をはっきりみとめる希望を持ち得るということである。
ユングは、「超心理学」が主張する「死後の命に対する科学的に妥当な証明」を退けつつも「多数の人にとって、不死の問題はあまりにも差しせまっ」ているため、死後の生命について「何らかの観点を形づくる努力を払わねばならない」。それは「無意識からわれわれに送られてくるヒント」によって成される、との仮説を立てる。そして、彼自身の経験として、汽車の中で誰かが溺れかけるイメージに圧倒され、帰宅すると同じ時刻に孫の一人が水に落ちたものの、救いあげられていたことが判明した例や、亡くなった妹と彼の知り合いの婦人とが園遊会で一緒にいる夢を見た後に、その婦人が事故死した知らせを受け取った例を挙げている。彼はこのようなエピソードを「少なくとも心の一部は、時空の法則に従わないという徴候」と関連づけて理解している。
また、一人の老婦人が亡くなる前に、死者たちを「聴衆」に、「存命中のすべての経験」を述べる「講師」としての役割を果たす夢を見た事例を引いて、ユングはふたつの重要な指摘をする。ひとつは、死者が「無時間の相対性の状態で存在し、そこでは『終止』や『事象』や『発展』などが疑わしい概念である」ため、それらが絶えず発生する生者——もうすぐ「新しい死者」となる老婦人——の生活体験に興味を示したのではないか、ということ。もうひとつは、老人にとって死は「重要な関心事」であるために、彼らは「死についての神話」を持たねばならないのではないか、ということである。
さて、ここで私自身の経験を語ろう。ある日の明け方、子を産み、祝福される夢を見た。出産の苦しみの場面は省略され、額に汗が滲んだことにして、無事に産み落としたところから始まったように思う。深い眠りの優しさが目が覚めても続き、周囲は非常に静かだったが、複数の人の祝いの声は耳に残っており、〈これでもう大丈夫〉と微笑んだ。普段全く見ない類の夢で、子供を持ちたいという願望も特になかったため、驚きを抱えたまま勤めに出た。翌朝、急いで進めねばならない仕事について遠方の相手と電話で打ち合わせ、無事に終わるとその人が唐突に〈昨日、長男が生まれました〉と言った。一時期親しくしていた人だったので、そんな言い方になったことを推察しつつ、ではあれは予知夢だったのか、という衝撃が上回った。母となった人について何も知らないこと以外にも、実は自分も同じく昨日、夢で子供を産んだのだ。と告げてはならない理由が潜んでいる気がし、おめでとう、会社を休んで付き添わなくて良いのか、と返すに留めた。終話後、夢で子供の顔を見ておらず、性別どころか人の形をしていることさえ確認しなかったからだと思い当たった。
ユングと異なるのは、この夢を観察する私が虚構に積極的な意味を見いだす小説家である点だろう。このエピソードは二つに分岐させることができる。夢を単純な予知と捉える=実在の赤ん坊に帰属させるならば、こちらに生まれた夢の子供は「無時間の相対性の状態で存在」し、新しい死者ならぬ新しい生者である子供から様々な「発展」を貰い受けねばならないだろう。私は子育ての経験がないため、一年後、夢の子供に〈今日は一歳の誕生日だね〉と語りかけるも、その視覚像は微塵も存在しなかった。このことが危機と感じられるようであれば、私は贈り物を携えて知人とその息子に会いにゆかねばならなかっただろう。そこでの振る舞いは、妖精——彼らが盗み出すのはものの価値であり、ものそのものではない(たとえば生物の外見を些かも変えずに、能力だけを奪ってゆくことができるという)——に似ていやしないだろうか。
しかし、夢を小説家への祝福と捉える=正真正銘の虚構の人物——決して実在する人物の性格や行動からインスピレーションを受けたのではない——が誕生し、その完全なる《切り離し》を刻印するために、同時並行の現象として、知人も子を授かるタイミングで出産が起きたのだ。と解釈することもできる。その場合、夢の子供は小説そのものでもあり、決して見えず、触れえない「無時間、無空間」から来た者、どんな登場人物にも発展する可能性を秘めた者として、私を護ってくれるだろう。私は自分の道を行くことを選んだ昔、その男の子の父親からも離れたことを思い出す。
死への「絶対的な疑問」が課せられ、神話を持たねばならないのが老人であるならば、誕生におけるその人は、妊娠適齢期を過ぎようとする女であろう。人間の子供を我身によって持つか持たぬかの結論を改めて下す時期の私を選び、この夢はやってきた。書くことと出産し育てることの両立は難しいと、前者を選んだのは二十七、八歳頃だったろうか。作品という子供と肉体を持つ子供では、ひとつ社会的意義にのみ絞って比べてみても、決して前者が後者に劣るのではないと、証明文を綴った記憶が懐かしく思い出される。そうした意識的な処置が結局は暫定のものに留まったのに対し、この夢ははるかに恵みと感じられた。
話を戻す。出産していない女の人が、神話を持つ必要ゆえに似た経験をすることがあると思うが、私はまだ見つけられていない。心当たりがあればぜひ知らせてほしい。死は突然であり得るため、予知や、偶然の一致を語る人はそれなりにいるだろう。けれども誕生には妊娠という前段階が伴う。誕生を予知するには、妊娠や出産予定日が予知する人から隠されねばならない。空間的に隔てられ、尚且つ子供が生まれてしまうまでは、(親しさにも関わらず)子供の親が連絡をしない要因が何かしら存在することが条件となる。条件が揃う確率は低いのではないか。しかし、ユングが老婦人の夢を援用することで「異常な聴衆」について語り得たように、他の方の経験からも教わることができればと願う。
さて、そのユングは再び自分の夢に戻ってくる。実は死者という聞き手の存在を彼も経験しており、「一種の祖霊」が「難しい質問」や「決定的な問い」を投げかけてくるのであった。死者の魂は「死んだときに知っていたこと」以上のことは知らない。また、その世界には生者が持つような「座標軸のシステム」が存在せず、したがって「認知」もこの世におけるよりも漠然としているために、生者に求めることでしか得られない類の「回答」が存在すると彼は言う。生者の側から表現すれば、「人間が死にあたって、あの世に何を『持ち込める』かが重要」である、と。
死後の生命が以上のことを要求するのだとして、未生の生命ではどうなるのか。「三次元」に生まれてきた知人の息子とは違い、夢の子供はそれを選ばなかった。「認知の雲」の中に留まるべき理由が何かあるのだ。それにもかかわらず、現実に子を産み落としてはいない私の腹を借り、その子はいっとき誕生の感覚(を得る/与える者)として存在しようとする。生まれればもう虚ではなくなるのだと、興味を惹かれて集まってきた未生の生命たちの中で、誕生さえもやはり虚であった、と翻っていこうとする者。《母親》のほうは鮮明な産み落としの感覚を持ち、時が経つと「三次元の世界」の中で、定期的にその子のことを考え、座標軸を持った成長さえイメージするということが、彼らにとって何か重要なのだろう。今の私の考えでは、彼らは赤子で、具体的な疑問をぶつけてきたり、知識を得ようとしているとは思われない(遊び場のようなものを欲しているのではないか)。しかしユングの言う聴衆=死後の生命がやがて再び生まれ直す準備をして、私の夢に現れた未生の生命へと移行していくのかは判断できない。
ある夜、底無し沼に足を取られかけて、生へ引き返せなくなる前に、力を入れて這い上がればよいと思っていたら、沈んだ足が泥に包まれず、逆に空へ触れる夢を見た。気を抜くと暖かい泥の中へ溺れるのだと警戒していたが、そうではなく墜落の気配がする。実は底無し沼は雲の上にあり、ある程度沈むと空から落ちてしまうのだが、スカートのおかげで助かった。脚だけが空中に出、スカートが沼の方へ捲れて泥に引っ掛かっていたのだ。気を付けなくちゃ、と友人と話した。これなど、地に眠るものが天から降りてくるものに変わる予感を秘めていると思うがどうだろうか。
ユング自身、亡くなった知人たちの「再生の過程を示すように思われる一連の夢を観察した」が、何と言っても自分だけの経験であり、他人の夢に同じ系統のものを見出せてはいない、と断りを入れて詳細は控えている。ただし、「ある種の魂は永遠の存在であるよりは、この三次元の存在の状態の方を幸福と感じるのではないか」と推察し、人が(世界から)投げかけられた「問い」に生涯をかけて取り組んだとしても、世界がその回答に「不満足」であることが判明すれば、その時はまた「再生」しなければならない、という考えを示している。夢の子供も、休息していた魂がいきなり三次元の形態をとることを望むのではなく、試しに、知覚を掠め取るように、虚構と人との中間的存在として、私を通じ様子見をしているのかも知れないと思う。またそのような存在が、私の問いを深める力を試しているのでもあるだろう。似たような問いを持つ魂が、観察のために降りてきて、私に見込みがあるうちは満足して報告に戻り、本当に生まれては来ないのかも知れない。充分に水を貯えた森林が、空からの降水をこれ以上は受け入れず、水蒸気として空に返すはたらきを持つように。
いずれにしろ、彼ら未生の生命は無時間・無空間を私の中に運び入れた。それはどんな登場人物、そして語りをも恐れぬようこちらを励まし、創作を続けさせる効果を持つのではないだろうか。夢の子供の座標軸のなさに比べれば、どんな虚構の人も恐ろしくはない。夢から覚めて味わった安堵は、一見、産めよ殖やせよの社会的要請からの解放や、愛する相手に我身の子供を与えられはしない、と気にかかる心をついに離れられた、ということのようだが、それだけではない。これから自分に呼びかけてくる、いかなる不思議、実体のなさとも伍してゆく力にこそ関わるものだったのだ。
同時に、こうした全てが、この世で私が行うつもりのないことを、名も知らぬ別の女性が成し遂げてくれたのだと、一本の電話で判明した際の衝撃と感謝によって今も支えられている。ひょっとすると、私と同じ問いを持つ魂が、その赤ん坊において「人間の形態」を取ったのだろうか。そうであるならば、東方の賢者よろしく贈り物を携えてその子と両親を訪ねて行かなくとも、いつか間接的にでも出会うだろう。現時点で私がその人間の形態を一度も目にすることなく、従ってどのように限定される姿も持たなかったことこそ、問いと小説にとって幸運であった。
経験を自ら語り終える前に、他者により記述された特定の文と概念を使って書く試みは初めてであった。冒頭にも書いた通り、私にとって「お話」はお話であり、自力で書き進めたならば「神話」と翻訳する可能性など思い及ばなかっただろう。その揺らぎから、未出産の女が「誕生の神話」を持つという仮説は生まれた。だが、現実に出産するわけではない。公開されにくい事柄だろう。あるいはフィクションによせて語られる。
「廃墟の中で平たい石の上で刺草にかこまれて暗闇だったか月夜だったか小声であれこれと声色を使いわけてそれがおまえの少年時代ってものだった」「おまえ一生のあいだにいちどでも自分に向かっておれって言えたことがあるかい」「生きてる人間にもう口をきくことはできないおまえが生きてる間はできない」「かつて存在しなかったのだとしたらどうだろう変わりばえがするだろうかかつて存在したことがないってことにしたらうまくいくだろうかと考えたりして」
私は二十歳の自分がベケットの戯曲で一番好きだった『あのとき』を思い出す。いつか夢の子供がこの戯曲の声のように喋り始めるかも知れないことを、常に心に留めておかねばならないと感じる。何十年の後、夢の息子はこれらの言葉を発して実在の男、知人の息子の副音声のようにも生きてしまいうるけれど、そのことは私だけが知っていればいい。そして、当時『あのとき』を評したメモを見つけたのだが、その読解は過剰であると現在の私は思いつつ、奇妙にも以上の秘密と響き合う。
「(声は)自分がいつも独りであったと同時に彼女と一緒にいたことを知る。これはやはり母であり、生命であるだろう。性的にならず、どこか具体的でなく、他者となって現れもしない何か。森の石の上、あるいは砂浜、どこへでも付いていき愛に溢れていることが、その光景を(虚として)破り『声』を現在へと引き戻す。独りで立たせようとする。」
【引用文献】
カール・グスタフ・ユング『ユング自伝 2 思い出・夢・思想』アニエラ・ヤッフェ編、河合隼雄・藤繩昭・出井淑子訳、みすず書房、一九七三年
サミュエル・ベケット『ベスト・オブ・ベケット 勝負の終わり/クラップの最後のテープ《新装版》』安堂信也/高橋康也訳、白水社、二〇〇九年