海に浮いていると鯨がやってきて、お前はだれだ、と言う。人間です。陸で動いているあの小さいやつか。鯨が驚く。人間を見るのははじめてらしい。なぜここに、と訊かれ、今日は少し悲しい気持ちで、と答える。この世にあるものはなんだって少しだけ悲しいよ。鯨が笑う。目のなかに海と僕が映っている。

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海に浮いていると鯨がやってきて、お前はだれだ、と言う。人間です。陸で動いているあの小さいやつか。鯨が驚く。人間を見るのははじめてらしい。なぜここに、と訊かれ、今日は少し悲しい気持ちで、と答える。この世にあるものはなんだって少しだけ悲しいよ。鯨が笑う。目のなかに海と僕が映っている。

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巻貝のなかに住んでいる。ひんやりした壁に身体を沿わせ、眠っている。波の音が通りぬけ、海になってしまった気持ちになる。夜は、星の光が降ってくる。みんなが海の向こうから呼んでいる。このまま波に揺られて、海を渡っていくのかもしれない。みんなと海を漂って、もうさびしくないのかもしれない。
ときどき心が散り散りになる。ひとつずつ空に投げる。きらきら光って蝶になる。あの蝶もあの蝶もだれかのところからきたのかもしれない。もういない人のところからきたのかもしれない。もう帰りなさい、と呟く。人の身体に縛られなくていいんだよ。ゆっくり休んでいいんだよ。蝶が光る。きらきら光る。
明けてゆく空を見ている。思い出している。砂のようにさらさらと手のひらから命がこぼれ落ちていったこと。つながりも記憶もいつかこんなふうに全部こぼれ落ちてしまうのか。生きてる根拠がなくなったって、まだここにいる。生きるとはそういうことか。さびしい骨のようなものか。淡淡と明るんでいる。
ふいに生きているのがいやになって、学校の駅を通り過ぎた。気がつくと博物館で化石の前に立っていた。石に埋まった、長い名前の生き物。死んでからも形を保ち続けるのは、さぞ大儀なことだろう。生きるってなんだ。僕ってなんだ。化石になった僕を想像する。ひんやりした部屋に時計の音が響いている。

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ぼんやり雲を眺めている。雲と話すには言葉を捨てなければならない。雲と飛ぶには身体を捨てなければならない。そんなことを考えているうちに少しずつ瞼が重くなる。夢のなかでわたしはいつも雲と話しているのかもしれない。飛んでいるのかもしれない。目覚めたあとそっくり忘れてしまっているだけで。
あたたかい風が吹いて、空気がきらきら光って、今日も地球は回っているらしい。そのどこかで、カバが水浴びしたり、ペンギンが氷のうえを滑ったりしているのだろう。僕は書かなきゃならない手紙の返事を書き出せずに、ぼんやりと外を見ている。憂鬱でまぶしいこの世界で生きる意味について考えている。
日がな寝転んでラジオの雑音を聞いている。あれは雑音じゃないってあの子は言ってた。星の声、むかしの人の声、そんなのが混ざり合ったものなんだって。ざざざざーっと音が響くよ。もしかしたら聞こえるかもしれないもういないあの子の声がその音のなかに。耳をすますよ。ざざざざーっと波のようだよ。
晴れたので、わたしを洗濯することにした。そうしないともうダメみたいだったから。じゃぶじゃぶ洗って、しぼって、干す。白くなって、軽くなる。きっと前より薄くなって、大切なものもたくさん流れてしまったんだろうけど。そんな自分を薄情なのかもしれないと思いながら、ぱたぱたと風に揺れている。
春の匂いがする。なつかしい、いろんな匂いが混ざって、もうすぐ桜が咲くとわかる。だけど知ってる。その花は、去年の花とは違うのだ。ひらひらと舞い散った、あの花とは違うのだ。同じように咲くけれど。どの花も、向こうの世界にいったのだ。花の命が満ちていく。手を伸ばし、春の匂いに触れている。

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毎日少しずつなにかを忘れていって、なにを忘れたのかも思い出せなくなって、僕が少しずつ消えていく。いつか真っ白になってしまうのかもって、空を見ながら思う。自転車に乗ってずっと遠い町まで行きたい。僕がだれかも忘れたまま、その町で暮らしたい。ただ風に吹かれて、すっかり消えてしまうまで。
純粋なものが怖かった。見たそばから壊したくなる。それがいつか壊れてしまうのが怖かった。それなら、いま僕の手で壊した方がいいように思えた。純粋であるということが、なにかを信じているということが、なにも信じられない僕を傷つける。僕自身がそれに憧れているということが、僕を深く傷つける。
なにを見ても君を思い出すから、君と暮らした町を離れた。海辺の家で暮らして、やっぱりなにを見ても君を思い出す。だけど気づいた。その記憶が僕を守っていると。今朝、君の夢を見たよ。白く明るい夢で、覚めると少し幸せだった。生きてるものはみな呆気なくいなくなる。砂の上で波の音を聞いている。
生きてるものはあたたかい。ずっとそう思い込んできたから、そうじゃないと知ったときは驚いた。魚も海月もあたたかくなんかない。生きることと体温には関係がない。いまはそんなことが少し、救いのように思える。あたたかい身体でいることが不安で。点滅する赤い点のように、脆く孤独なことに思えて。
夢を見た。死んだ妻がやってきて、僕の額を撫でる。なつかしさに涙がこぼれ、妻が細い指先でぬぐってくれる。目が覚め、僕に妻などいなかったと気づく。頬が濡れている。あれはだれだったのか。あのなつかしさは、やさしさはなんだったのか。生きてあることが恵みだと思う。細い月が空に浮かんでいる。

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晴れたので海に行った。空も青くて、海も青くて、風が冷たかった。目を閉じると、鯨といっしょに泳いでいた。子どものころこんな夢を見たな、と思った。鯨に乗って海を旅する夢。僕はずっと夢のなかにいて、海を旅していたのかもしれない。目を開ける。海が広がっている。胸の奥で鯨が潮を吹いている。
あの空を流れていくのはなんですか。ふわふわと流れていくのはなんですか。見えるような見えないような、あるようなないような。あれはなんですか。冬の日差し。世界がすべて廃屋のようです。きいきいとブランコの音が鳴っている。あるようなないようななにかの気配が、風といっしょに浮かんで消える。