あなたはなぜ、アルコール飲料を飲むことを嫌うのですか。それほどまでに──私は目の前の猿が上海語を話していることにはそれほど驚かなかった。それよりも自分が何の服も身につけていないことの方で不思議だった。そして強烈に情けない気持ちになった。
「大丈夫ですよ」と猿は言った。「私だって何も身につけていませんし、あなたは立派な体をしていますから」──私は自分の体がどうなっているか気になった。しかしいくら頭を働かせても自分の体型はおろか、姿や顔といった少しの特徴を思い出すことさえできなかった。「さぞかし混乱されていることでしょう」猿は淹れたばかりのコーヒーを私に渡してきた。深緑色のとても品のいいマグだった。
温かいコーヒーを飲むにつれ私は少しずつ落ち着きを得ていった。猿はその様子を感じたのか穏やかに話し始めた。「先ほどの続きなのですが──いや別の話をしましょう。私が普段から不思議に思っていることです。それをあなた方とも一緒に考えてみたいのです。よろしいでしょうか。その問いとはつまり、一つ目はこれです。なぜ私たちは病んでいても医者にかからないのか」。猿は私の目をじっ、と見ている。けどそれは優しい眼差しだった。
しばらくのあいだ、私は問いの意味を考えていた。するとまた猿が口を開いた。「その問いについてはそのまま考えていてください。答えを急ぐことはありません。むしろ時間をかけて考え続けることこそが大切ですからね。問いを2つに分けることができたら、私たちはそれをさらに4つ、8つに分けていくべきなのですから。ところで先ほどの問いにつながることなのですが、私たちがはどうして医者に診てもらうだけでいくらか病が治ったかのように感じるのでしょうかね。手術をしたわけでも薬を飲んだわけでもないのに、どういうわけか少しだけ苦痛が和らぐ。私はそれについて今よりも少し詳しくなりたいのです、ですからあなたとも考えてみたい」。私はこの時、初めから気づいていたことに改めて気づいた。この猿は人格者であり教養人*なのだ。
それから長い時間をかけて、私たちはさまざまな問いについて心ゆくまで語り合った。
土手 これ、読んでみるといいですよ。(おもむろに本を渡す)
山根 『禅とオートバイ修理技術』。これは一体、面白そうな題名ですね。
土手 実際に面白かった。差し上げます。ロバート・メイナード・パーシグというアメリカ人が1974年に発表した哲学的な小説です。
山根 ありがとう。私が興味のありそうな本です。それにしても土手さん、どのようにしてこの本を知ったのですか。
土手 それにははじめに、エリック・ホッファーの話から始めるべきです。
山根 ああ、あの港で働きながら哲学をやっていた人ですか。
土手 そうです。彼の愛読書がモンテーニュの『エセー』であることは有名な話ですね。それは猿でも知っている前提として話を続けさせていただきます。
土手 はい。彼の自伝を読んでいたら、付録として晩年のホッファーへのインタビューが載っていました。その内容はアメリカと老いについてでした。そしてその中で『禅とオートバイ修理技術』について少し触れられていたのです。これは先生、少しでもこの書名について知っていたら、読み始めない理由を欠いてしまったと言えるでしょう!
土手 私は早速、その本を買いました。上下巻に別れた文庫本の表紙はオートバイのエンジンの写真になっていて、上下巻を並べると一枚の写真になります。V型のエンジンです。私はエンジン──内燃機関への関心を隠し通すことができません。
山根 土手さん、久しぶりにあなたと会話していると、あなたがパイドロスのようになった気がします。しかし土手さん、もしもあなたがパイドロスだとしたら、私は話の聞きたがりで有名なソクラテスの役を買って出ることにしますよ! それが礼節というものだと私は心得ています。
土手 ありがとうございます、山根先生。いや、ソクラテス。あなたの産婆術の恩恵を受けて私はかの惨めなソフィストの二の舞を避けることができました。つまり、一介の散歩者になることができました。
山根 それはパイドロス、とてもいいことだと思います。誠実であることが大切ですから。そして土手さん、何の話をしていたんでしたっけ。
土手 すみません、私は興奮するといつもこうなのです。話は──いえ脱線ついでに最近の本の数珠繋ぎをご覧差し上げましょう。私はエリック・ホッファーの著作を読み始めました。その中でパーシグの『禅とオートバイ修理技術』に触れられていたので読み始めました。その中の登場人物がオートバイでの旅行中に持ち運んでいる本がヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン 森の生活』だったのです。もちろん、これは恥ずかしいことなのですが、私はこれまでモンテーニュの『エセー』を読んだことがなかったのでこれも購入して読み始めました。
土手 さらに恥ずかしいことに先生、私はオートバイへの関心が留まることを知らず、自動車教習所に通い始めました。銀行口座から現金を引き出して、それを素手で握りしめて、汗だくだくで、入校を申し込みました。受付の女性は顔が引き攣っていましたよ。彼女には悪いことをしました。
山根 そうして、オートバイの免許は取れたのですか。
山根 余暇活動が広がっているようで素晴らしいですね。エリック・ホッファーの言葉の中に週に5日、日に6時間以上の労働はいけない。労働が終わった後に本当の人生が始まるのだからというものがあったのを思い出しました。余暇活動と便宜上言っていますが、実のところ私たちが平静を手に入れるためにはこの余暇活動が不可欠なのですよね。
土手 それは全く、先生、その通りだと思います。結局のところ、労働は労働としての私たちへの効果がありますが、それが本質であることは危険です。それが本質となりうるものは生活であるべきだからです。生活の実践こそが私たちの哲学であるべきです。そして言い換えれば哲学することとは私たちの死に方を学ぶことなのだと思います。
山根 さすが土手さん、最後のところはモンテーニュのエセー第19章「哲学することとは、死に方を学ぶこと」からの発想ですね。確かに私もあの章を気に入っています。たとえば「徳たるものの主たる恵みとは、死を軽く見る(メプリ)ことであって、これが我々の人生に、ふんわりとした平静さを与えてくれるし、純粋で、愛すべき人生の好みをもたらしてくれる。これがなければ、他のあらゆる快楽も消えてしまうのだ。」とか言ったような文句は箴言となって私の中に在ります。
土手 やはり先生、即興で誦じることができるんですね。私もそうなりたいものです。もしも私が鉱山で働くことがあれば、労働仲間とどんな話題を話していても、彼らがこの件についてモンテーニュはなんて言っているんだい、と聞かれれば、いま先生がして見せたようにしたいと心から思っています。もちろん、ルクレティウスの『事物の本性について』だって誦じてみせます。古典を誦じることでしか自己同一性を感じられない虚しい実存にはなりたくは在りませんが……。
「どうしたのですか、気分がすぐれないようですね」。私は、猿が入れてくれたコーヒーを節操なく飲み過ぎてしまったらしい。急に大量のカフェインをとったせいで頭がぼんやりとしてきた。「考えてみれば、コーヒーもドラッグみたいなものですよね、快楽があれば副作用のように、気分の悪さもある。とどのつまり、私は即時的な快楽ではなくそうした二日酔いのような、副作用の方にドラッグの本質を見ています──」猿は嬉々として話している。私の体調は優れていないが、不思議と悪い気持ちではない。
話はいつの間にか西洋哲学と東洋哲学の相違について及んでいた。本当にこの猿は博識だ、と思った。博覧強記というのはこういう人(猿)のことを言うのかもしれないと心から思った。猿は続ける「ことに何かを客観的に分析する際の、その分析自体を疑うと言うことを一つの手段とするのは大切なことだと思うんです。おそらく、あなたも日頃からそう思われていることでしょう。私もかつて何度も考えました。結局のところ、主格を分けることで理解しやすくなるもの──だけではないことを感じることが大切だと思うんです」私はそれに同感した。
日が暮れてきた。目の前の猿が暗闇に溶けていく。「いい灯りがあります」そう言って、猿は彼の後ろにあったオートバイ(いつからそこに存在していたのだろう)のヘッドライトをつけた。「昔は結構、これでどこでも行ったものです。キャンプもしました。そう言う時にこれは役に立つんですよ、このライトは」猿はおもむろにオートバイの後ろにくくり付けられたバッグから本を取り出した「この本、お読みになったことはありますか。よろしければあなたに差し上げたいと思うのです。古い本ですが、きっとあなたも気に入ると思いますよ。もしかすると、私は昔にもこの本をあなたに渡したかもしれません。先生」
オートバイ──その音は徐々に遠くなる。私はじっとしていた。暗闇に包まれて、あたりには何もない。空でさえ見えない。だから私は目を閉じた。何もない。それゆえに、摂りすぎたカフェインによる気分の悪さだけが、より一層際立って感じられた。
* 猿であれば人格者ではなる猿格者、教養人ではなく教養猿と書くべきであるが不必要な混乱を避けるために「人」の文字を使った。この注釈を蛇足だと私自身も思うが、同時にかの猿への唯一にして最大限の配慮だと思っている。また同時に私に内在する加害性と偏見への戒めでもある。