わたし的セクハラの解釈
飲み会で体型の話で場を紛らわせる人たちも、それに対してもう諦めていてノリよく返さないと空気悪くなるのわかってるしってはははと返す私も、早く消えてしまえばいい、と思うよ。
日本で今セクハラ対策の名目で実行されているのは、価値観の変化に対応できない人たちに対して「相手の気持ちを慮ることで相手の気持ちをとりあえずは傷つけないようにしましょう、本当はどこに気を遣うべきなのか、どの価値観がどう変化しているかなんてわからないだろうし、私たちもよくわかんないんだけど、まあなんとなくよろしくやってよ」程度の応急処置の依頼。
(考えてみたら、慮りさえすれば気遣えるはず、相手の気持ちを察するに十分な想像力がみんなにあるはずって前提は、ちょっとばかし疑う余地あるんじゃないの、とも思うけど)
セクハラの裏にあるのは、社会構造の変化。これまでの人種、宗教、男女じゃなくて、消費行動による社会構造のグループ分けに変化してる。だから、従来の人種、宗教、男女という枠組みで人を区別することを「差別」と呼び始めた。それが超俯瞰的に見える変化。
でもそれについていけない心の変化。だって今まであまりにも「女性の美しい=正義」と教えられてきてしまった。それを言われる環境で育ってきてしまった。みんな「男は強くたくましく、女は弱く優しく」と植えつけられてきてしまった。
それが変化するとなると、私の脳裏には、少しでも目が大きくならないかと願った中学生のときのわたし、少しでもうまくお化粧できないとと焦った上京したての頃のわたしの姿が思い浮かぶ。まあその変化はいいでしょうけど、ああ、あのころの私浮かばれないなあって思う。
それにほら、今だって、私はTPOにあった服をきて、卒なく化粧をして立っていなければと思う。だって、それが私の社会に対する態度。化粧をしていなければ密かにぞっとされ、腕の毛が長ければ密かにバカにされる、そんな社会に私はこうやって立ち向かおうとしてきたし、しているの。
私の心だって、無意識にたくましさや強さに「男らしさ」を感じている気がしているし、あまり強く物事を主張しすぎて「生意気な女史」にならないように気をつけたいと思ってしまう。ほら、私だってセクハラの種は持ってる。
セクハラってこういう問題だよ。あなたが女性に対して「この人綺麗」と持ち上げるたび、その裏で密かに「きれい=女性らしい」という社会的構造を実感している女子たちがいる。「男のくせに」となじるたび、その裏で密かに「強くないと男じゃない」という社会的構造をつきつけられる男子がいる。
世間一般がさすところの「セクハラ」って、従来の社会構造に依存しているマインドセットを問い直そうね、ってことの、ほんとうに表面的な一部のことだよ。
「セクハラ」がさすところの本質は、こういうことなんだと、私は思うよ。
















