戦略会議 #02 展示まわり/ HAMAMATSU SESSIONS 2019
浜松、Hirano Art Galleryで開催中の3人展「HAMAMATSU SESSIONS 2019」へ
世界で活躍する浜松出身のアーティストである若木信吾氏、多和田有希氏、Nerholの三組による現代写真アート展。
本当は休館日なのだが静岡までいく用事があったので、無理を行って開けてもらった。おかげで広い館内をじっくりと時間をかけて堪能することが出来た。
はじめて訪れたのだが、とても広くすばらしいスペースだった。
展示を全体に関して、まず本展「HAMAMATSU SESSIONS 2019」は「浜松出身アーティストたち」としてはいるが、それだけがこの3組を繋ぐテーマはやはりそれだけではないと感じた。
現代写真アート展とうたっていることもあり、この展示は単なる写真展ではない。3組はそれぞれの方法で、写真というものを文字通り物理的にも、概念的にも切り刻み、解体、再編、再構築した表現を持つ。それが単なる写真展ではなく、現代写真であり、アートとして3組を繋ぐ展覧会としてのもうひとつの線であると感じた。
多和田有希氏:
多和田さんの展示している作品のシリーズのいくつかを昨年2月に観に行った「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」(21_21 DESIGN SIGHT)で一度、鑑賞している。その時もヴィジュアルのインパクトはかなり受けたが、2度目である今回の方が作品としっかりと向き合い解釈を進めることが出来たと思う。
彼女の作品はプリントという物質そのものに穴を空けられたものとなっている。1枚のプリントのものもあれば、焼き切られて輪郭を持ったプリントを素材とし透明な板の上で複雑に組み合わされ、さらにそれが3層構造になっていたりなど複雑なレイヤー構造を成すオブジェとして鑑賞者と向き合う。
文字通り、写真そのものを切り刻み、解体し、再編、再構築することで作品とされている。
解説で使われていた「人間の精神的治療のシステム」という言葉に引っ張られるわけではないが、作品と向き合った時に、作品を写真として観ようとする僕自身がまず穴が空いて、プリントの向こう側が見えることに混乱をし、そこから徐々に自身の想像力によって穴を埋めるようにしてイメージを再構築していることがわかる。いかに写真を想像力ではなくまず写真として観ているのかということに囚われた自身の概念的能力の狭さにやや愕然とさせられる。
複雑にレイヤー構造で組み上げられたオブジェは儀式に使われる何かにも、中世のシャンデリアのような象徴的なものとしてのフォルムのようにも見え、写真というメディアそのものが排除してきた魔術的な要素を感じるのはこの作品がいわゆる写真ではなく、写真を使った彼女の手仕事によるアートであることが大きいと感じた。
作品の中に辛うじて見つけられる人物の頭と肩から伸びる先が、手であると思うとそうではなかったりする。
この階層構造と複雑なフォルムは鑑賞者の視線の先にあるリアリティを引き裂く。
作品によって表現されるものは「何かであって、何かでない」
向き合った鑑賞者としては頭の中に作品のその触手を脳に突っ込まれ、想像力を引き摺り出される感覚に陥る。
Nerhol:
彼らの作品は好きなこともあり、都内で観れる展示には割と行っているので今回も再度目にする作品もいくつかあった。
彼らは数百枚という重ねられた写真を彫刻のように掘り出すことで作品としている。
数百枚に重ねられた写真の層の厚みはある瞬間ではなくある時間の幅を示す。現実である3次元に時間という概念を加えた4次元という時空を2次元の重なりで変則的に新たな3次元の実体を作り出しているのだ。
そこから掘り出されたイメージは時空を歪め、時間的にも空間的にもループし、はじまりも終わりもないメビウスの輪のように現実世界とは違ったパラレルワールドを映し出す。
若木信吾氏:
今回はじめて作品を拝見するのは若木さんだけだ。
3組の中では一番写真らしい写真作品ではあるが、若木さんの作品も確かに写真を切り刻み、分解していると感じた。
3つのシリーズの作品から数点ずつ作品が展示された構成であった。
「川」のシリーズ。
静岡は熱海から入って浜名湖を抜けるまでに6つの新幹線の駅を持つほどに東西に長い県で、二つの大きな川(富士川、大井川)で東部、中部、西部に分けられる。それぞれに地域性がちがうことを大学時代から最初の就職まで9年の間過ごしたころによく聞かされた。さらに僕が居た静岡市ならば安倍川という川が市内を南北に流れ、歴史的な背景から「川向こう」といった差別的な呼び名があったりした。浜松市も天竜川が東側の豊田町との境を流れ、そこから西側が浜松市となっている。
静岡にいたことから感じるのかもしれないが「川」というのは「分断」をイメージさせるモチーフなのだ。地域、文化、感情といったものがそれを挟んだこちらとあちらで違うものだという意識がいつの間にか形成されている。
展示されていた若木さんの他のシリーズも後景と全景の間に車がイメージを分断したものや、歩道が道路と建物の地域を分けたものなど、イメージ内を何かしらのモチーフが横切り、分断したものであった。
若木さんの作品は写真そのものではなく、モチーフによって示されるイメージ内を分断することで写真の伝える概念を切り刻み分解している。
しかし、作品としっかり向き合う中で「分断」といったネガティブなイメージは必ずしもこの作品の最終的に示そうとしているものではないのではないかと感じる。
全てのイメージで「川」は実際には何かを分断するものとして捉えられてはいない。川の向こうの土地が左右にイメージをしっかりと横切っていたり「川」が分断のモチーフであることを逆に否定するかのようにイメージは丁寧にモチーフである川を扱っている。むしろ左右に横断する土地が川と空という二つの広大な空間を分断しているようにすら見えてくる。
他のイメージも然りであった。
後景の壁のグラフティと左右に画面を大きく遮る車のグラフティの対比はむしろ両者を分断するものではなく、同一平面として観ているものが平面作品であることを思い出させる。
一度解体させられたイメージを想像力により再構築、再編させられ、別の違った見え方がしてくる。それは僕の持っていた「川」に対する「分断」というネガティブなイメージを逆に切り刻むものでもあった。
浜松というある地方都市にとって、写真というものに対する歴史的意識を切り刻み、解体、再編、再構築させるある意味で暴力的でエッジのきいた意義ある展覧会となると感じる。