避けたいと言いつつも、一日2公演になってしまった土曜日。
まず、午前中のモーツァルト・マチネ。毎週末、指揮者を変えながらモーツァルテウムオーケストラが演奏するシリーズ演奏会である。今日、ピットに立つのはアンドリュー・マンツェ。今年の音楽祭ではすでにカメラータ・ザルツブルクとハ短調ミサ曲を演奏しており、こちらはゲネプロで聴かせていただいた。
マンツェの素敵なところは、とにかく楽しみに満ちた音楽を作り上げるところだと思う。ハ短調ミサ曲も、プローベではあったがテレビ中継もされるような環境の中、本当にくつろいだ雰囲気をオケや歌手にも振りまいていて、それが、ハ短調ミサという、ともすれば重い演奏に傾きがちの曲を、独特の透明感と輝きのある音楽に仕上げていたのが印象的だった。
そしてさらに、指揮者としての「キャラ出し」を求められるのがモーツァルト・マチネだが、こちらでも、あくまでナイーヴな楽しみに満ちた「マンツェ色」?を前面に押し出していた。
プログラムは、モーツァルトが16歳で作曲したディヴェルティメント変ロ長調のあとに、ピアノ協奏曲27番と交響曲40番という、最晩年の作品を並べていた。ピアノはフランチェスコ・ピエモンテージ。ピエモンテージもマンツェも譜面なし、リラックス感あふれる演奏だった。ピエモンテージは、第二楽章のファゴット、オーボエとの掛け合いの時など、奏者とアイコンタクトを取りながら弾くという余裕が、なかなか気持ちが良かった。ピアノソロは丁寧に繊細に歌いこんで、実際にはポロポロと小さなミスタッチなどもあるのだが、それがほとんど気にならないほど、作品の骨格をしっかりと描き出していた。ソリスト・アンコールはシューベルトの即興曲。テクニカルな面でいうとむしろこちらの方が完璧だったかもしれないが、しっとりと情感を込めた素晴らしい弾きぶりだった。
休憩のあとの交響曲40番は比較的早めのテンポ。よく知られた曲の細部に仕込まれた、作曲家のさまざまなアイデアを浮かび上がらせるようなアプローチで、聴いていて胸が踊った。
さて、当初、本日のスケジュールはこのマチネだけで終わりにするつもりだったのだが、あとで音楽祭の日程表を見ていたら、夜遅い時間に、ジョナサン・ノットが振るウィーン交響楽団にビオラのアントワン・タメスティが共演するという演奏会を見つけてしまったのだ。タメスティはチェンバロの鈴木優人さんとここ何年かコラボしていてその演奏がずっと気になっていたし、ノットの指揮も同じくらい気になる。時間的にも余裕がありそうなので、ザルツブルク入りした翌日にインターネットでチケットを買い足した。
タメスティが弾くのは前半、イタリアの現代作曲家、ルチアーノ・ベリオの「フォークソングス」。1964年にソプラノと管弦楽のために作曲された「フォークソングス」がよく知られていて、最初にプログラムを見たとき、「ソプラノパートをビオラで?」と単純なことを考えてしまったが、プログラム冊子の解説によれば、本日の「フォークソングス2」は、20年後の1984年、ベリオがビオラ奏者のアルド・ベンニチのために書き下ろしたまったく別の作品ということだった。ソプラノの作品が、アメリカ、フランス、アゼルバイジャンなど各地に伝承されたメロディを色鮮やかに歌い上げるのに対し、こちらはシチリア民謡の旋律と音形を、無調風の音楽の中に巧みに編み込んである。今日の演奏は期待通り、ソロのタメスティが、上手いというよりは超人的な技を発揮して、もうそれは聴き応えがあった。会場となった古い馬場に由来するフェルセンライトシューレの構造を生かして、アーチが並ぶステージ奥にずらりとオケ奏者を並べ、両脇にパーカッションを配置した設えも、視覚的にもとても面白かった。そしてジョナサン・ノット。2014年以降、東京交響楽団で音楽監督を務めている関係もあり、日本で聴く機会も多い指揮者である。ただし、東京で聴いて、なぜかこれまで、ノットがここまで素晴らしいと感じたことがなかった。編成の小さいベリオでは、とにかく慎重に細やかに各パートを積み上げていくような繊細な指揮で、これまでどちらかといえばオーバーアクションなイメージを抱いていたのが、大いに裏切られた。ベリオの曲はとにかく実験的要素がこれでもかと詰め込まれていて、タメスティもオケの弦パートも、弓をかすらせたり楽器をギターのように横に抱えて爪弾いたりと、いろいろなのだが、その展開を細やかに導いていくノットのタクトが本当に素晴らしかった。
ベリオのあと、後半は、マーラーの交響曲第1番である。プログラム構成としては、郷里イタリアの民族音楽を自作に取り込んだベリオと、故郷ボヘミアの音楽のモチーフを散りばめたマーラーとを対比するというコンセプトであるらしい。そして、このマーラーが、本当にマジックだった。
「音楽都市」の伝説に彩られたウィーンでは、巨頭ウィーンフィルを筆頭に、その母体である国立歌劇場管弦楽団を別にカウントすると14のオーケストラが活動している。ウィーンフィルは別格だが、その次のランクに来るのがコンツェントゥス・ムジクスとウィーン交響楽団、そしておそらく放送交響楽団は3番手か4番手くらいの位置づけだと思う。決して全世界、あるいは全欧に名を馳せるレベルでブリリアントというわけではない。もちろん、こうした評価は個人的なものでしかないという前提ではあるが、少なくとも私個人の体験からいうと、ウィーンに長期滞在している時にヒマをもて余してウィーン交響楽団の定期演奏会などに足を向けると、時によっては本当にがっかりさせられることになる。在京オケはじめ、日本のオーケストラも標準的にいってとてもレベルが高く、特にベートーヴェンやマーラーなどは非常にいい演奏を出してくるので、余計にそう感じるのだと思う。
先週いっぱい、オーケストラもかなり神がかった演奏をたくさん聴かせていただいたので、今日のマーラーは、まあ聴いてみよう、くらいの気持ちでいた。そして、もちろん、先週しんどいほど連続で聴いたバイエルン放送響やウィーンフィルなどと比べると、いろいろと気がつくところもたくさんある。金管パートと木管パートがばらばらして、マーラーの怒涛のトゥッティが一体にまとまらなかったり、しっかりと旋律を奏でてほしい第一バイオリンがふわふわと漂うような不安定さを醸していたり。
ただ、今日の演奏は、そのような弱点を超越して、もっと大切なメッセージを内に秘めていた。菅がまとまらなかったりホルンがとちったり。このような瑕疵を100パーセントなくした演奏を聴きたければ、CDを聴けばいいだろう。多少「あれ?」というところがあったとしても、ライブの音楽は、ライブにしかない生命感と躍動感を秘めているのである。本日の演奏は、そのようなライブのレアなときめき、それに触れることの素晴らしさをナイーヴなまでにまっすぐに伝えてきた。第一楽章で問いかけ、第二楽章で踊りはね、第3楽章で静かに歌って終楽章で昇華する。重厚な交響曲が、そのようなひとつの物語として歌い上げられていて、そして、そのストーリーの面白さに、語り手がときどき噛んでしまってもあまり気にならない、とでもいったらいいだろうか。そして、ホルン起立で弾け飛ぶフィナーレでは、思わず鳥肌が立つほど音楽が聴き手の耳にしっかりとロックオンしていた。
やはりジョナサン・ノットの力量もすごいのだ。各パートに大きな身振りできっちりと指示を出し、途中、たとえ統制が危うくなっても、さっと最短で挽回して再びすごいレベルまで引き上げていくような、そんな力がノットにはある。
演奏後の大ブラヴォーを受けて、何度かピットから下がるのだが、古い馬場を改築したこの劇場には、ステージドアがない。オケが座っているところから脇の方に退いて、袖のあたりに佇み、岩のアーケードを三分の一くらい顔をあげて見上げていたノットが、まるで長いオペラを歌い終えた主役の歌手のように神々しく見えた。ノットの指揮をもっと聴きたい。帰ったら早速スケジュールをチェックしたい。そんな気持ちになっていた。