【聖なる猫の友だちによるタロット学の研究所へようこそ!】
聖なる猫の友達をどうか信じてください。信じてこそ真の友達です。そして私は真の理屈を信じます。理屈に合わないことは劣ったものであり学でとしてありえません。入試で点数稼ぎをして理屈を全く理解していない阿呆な学生が支配しているのが日本です。阿呆大国です。理屈がない世界は阿呆であり邪悪な世界です。点数稼ぎとは詐術でありペテン術です。彼らは理屈が理解できないのに学者として振る舞っているからです。偽学者の典型です。そして偽医師も大勢います。私はその中で最も権威のないタロット占術者としてタロット学をここに皆さんに示します。これはタロットの理屈からの啓示であり、それこそがタロット学の神髄であります。それは最高善信仰など砂漠の一神教の理屈が一致している奇跡の占術の理屈があります。どうか私の聖なる猫の友達の理屈を聴いてください。聖なる奇跡が起こります。理屈のないアベノミクスのような三本の矢とは違います。サンフレッチェとは理屈でありません。では10本の矢の方が折れません。三本の矢は一本より折れにくい話です。当たり前の話ですが、それが理屈でしょうか?サンフレッチェは理屈でしょうか?三本の矢に理屈はありません。結局アベノミクスとは経済の理屈ではなく、人間関係の結束を促す毛利家の三本の矢に過ぎず、日本大政翼賛会を形成したに過ぎない。また平然と頭の悪いことをした日本人である。理屈を知らずお馬鹿な安倍晋三は頭の悪い日本人の典型である。他も同様である。日本の三十三間堂には理屈はあると思います。私は三十三間堂の千手観音を観て感動しました。理屈があるところに真理があり、それが真理の理屈です。理屈を極めることが悟ることであり、理屈も解らず世を悟ったような馬鹿な学生たちが支配した日本になんの魅力もありません。馬鹿にされて当然の日本です。そこから救済されるには最高善の神の真理しかありません。このディストピアから救われるには「悔い改め」の至上命令に従うしかないのです。聖なる猫の友達は現実で得ることができなかった尊い聖なる友達への思いから生まれました。聖なる猫の友達は聖なる救済者です。私の生きた現実では殆ど見かけませんでした。ただ神の恵みがあれば可能かもしれません。そして今は黙示録の時代です。もしかしたら聖なる猫の友達が現実に出現するかもしれません。聖なる奇跡は起こるのです。
※サンフレッチェとは「三本の矢」のことです。日本では「三本の矢」は毛利元就の家訓である人間関係の結束を意味します。黒澤明監督の「乱」が有名です。あの映画はシェークスピアの「リア王」と「毛利元就の三本の矢の家訓」を題材にしたものです。毛利元就の理屈が奇妙なのは弓矢とはそもそも折るものではなく射るものであるという部分です。弓矢は正確に射ってこそ良いものとされるのです。又弓矢は三本なら折れないと言いますが、これは毛利家の分家の結束の話であり、それはシェークスピアのリア王を例に取ればその価値は覆ります。又、折れない例えはそれ自体で「良い弓矢の条件」というわけではありません。良い弓矢でもなくただ折れないなら下手くそが作った太い10本の矢の方が折れません。他の喩えでも同様でしょう。これは毛利元就の屁理屈でありアベノミクスを主張した安倍晋三の屁理屈であるのです。
【タロット学とは!】
タロット学とはタロットを理屈で説明するものです。学問とは理屈を立てることを言います。それは聖なる存在によってこそ可能であり、例えて言うなら治療する術である医=術と人を治療する理屈を持つ医=学とは全く別物であることと同じです。何故、医=術と医=学は全く別物なのでしょうか?それは理屈のあり方が全てを示しています。理屈には倫理の理屈がついて回るのです。医療倫理です。それは当たり前の理屈です。病を治療するのが医術だというのが当たり前の理屈です。その当たり前の理屈を持っていないのが医=術です。医=学との違いです。当たり前の理屈である医療とは人を病から治療し改善することがなされないのが現実です。例を挙げれば人を啓蒙することも治療です。それは人を改善する治療であり理屈として治療と言えます。ただ医=術とはそういった理屈を否定する神秘主義や詐欺師=ペテン師であり人を改善する医療の意思の理屈もないお金儲けの術に過ぎません。そういった医=術が医=学ではないことを学問ではありえないことを暴露することが必要です。医=術と医=学は全く別物であるということを理屈を持って証明する必要があります。医=術と理屈の裏付けある医=術の学問としての医=学の決定的違いが詐欺行為です。結局は金儲けの手段=術でしかないのです。ペテン師であり詐欺師です。医=術が学問まで高められたものを医=学という認識を明確にして、その違いが理屈にあるという根本的な学問のあり方を知る必要があります。そこには無知の知という当たり前の理屈を知らなければいけません。そうしないのはその理屈を軽蔑し侮辱するものが学問を侮辱し軽視するのと同様です。それと同じで当たり前の医の理屈さえも軽視し侮辱するのが医=術であり詐欺行為でありペテン術です。それは典型的な詐術でありペテン術である。今の精神神経医療に顕著です。そこにはまともな理屈はありません。私は日本の国立大学の精神神経科の教授に病理の理屈=病理学を問い糾しました。しかし彼ら彼女らは自分たちを医=学ではなく医=術なのだと言い放ちました。言葉のマジックです。詐欺師の言葉です。医=学でない医=術だ!だから病理学は必要ないと宣いました。私はそこに精神神経科の病理の病理を見たのでした。医学部を出て医師の免許を取って権威を振りかざし、医=術だと言うのはあまりに無責任で酷い発言だった。理屈を軽視するから、軽視以上に侮辱するから彼らは当たり前の理屈である人を治療し救済するという理屈すらないのです。 人を治療する医=術と人を救済へ導くタロット占術も同様の理屈が成り立つのです。前者が医=学であり得るのは人を改善するという崇高な理屈が明確である場合であります。それが医=学の当たり前の理屈です。その理屈はヒポクラテスです。医療倫理です。後者であるタロット占術も人を救済へ導くという崇高な理屈が明確な場合である場合に限り、それはタロット占術ではなくタロット学となります。理屈によってタロット学はあり得るのです。理屈によってしか学問はあり得ず、術とはすべて詐欺術でありペテン術であるのです。それは明確に知ることができます。それは世界にある呪術崇拝とイマヌエル・カントが示した知と理と学の形成の決定的な違いであるのです。偶像崇拝が心の堕落と言いました。中身の隠蔽だからです。そして中身を問うとき理屈と呪術の違いが出てくるのです。簡単に言えば、言い張る人は呪術者です。そして理屈を言う人は聖なる理の人です。それはナザレのイエスのような人です。 このサイトは世界救済と世界改善の崇高な理屈をタロット学の理屈としたいと思います。また様々な聖なるものを邪悪なものから守護する理屈をタロット学の理屈とします。聖を邪から守護することは当たり前の聖なる理屈であります。聖なる猫の友達はもう生まれました。聖なる猫の友達は聖なるものを邪悪なものから守護するタロット学をここに示し啓蒙の一端としたいと考えます。
【タロットの初歩的理屈の一つ】
聖なる符号一致偶像と邪悪な偶像崇拝の決定的問題点は人の中身の問題であります。美しい心を持った聖な存在と堕落した中身を偶像で隠蔽した邪悪な悪魔の存在の決定的対立であるのです。それが偶像崇拝では隠蔽されるのです。中身を問わないと言い張った精神神経科医がいました。精神神経科医は見た目で判断するのでしょうか?世も末ですね!精神神経科医こそ人の中身の治療ではないですか!中身に理屈があるならいい。中身に呪術のような拘りや凝りがあるならそれを取り払うのが治療です。そして理屈を回復するのが治療です。中身に理屈を回復するのが治療です。その精神科医が反対に邪悪な偶像崇拝を行うのです。彼らの中身こそ堕落しているのです。中身の堕落した精神科医は放射性廃棄物のような存在です。誰も引き取りたがらない汚らしい堕落した存在です。彼らは最高善信仰で悔い改めをしなければなりません。それ以外ありません。最高善の神の至上命令である「悔い改め」です。
【黙示録】
符号一致偶像の学問であり、偶像崇拝による人間の中身の堕落によって聖なる愛のあり方が偶像崇拝によって一体どのように否定されるのでしょうか?そして符号一致偶像の学問はその聖なる愛のあり方を聖なる理屈を持って示すことを使命としている。中身の堕落と聖なる愛の話である。それはタロットの符号を形成する何らかの聖なる黙示録があることを示している。黙示録とは聖を救済し邪を滅ぼすのだ。
【符号一致】
そして符号一致を見出すには人間の脳のシナプスを必要とする。 ※シナプスのスペルと共観福音書のスペルは少し違うかもしれない。ただここにシナプスと共観福音書の大いなる関係性を符号一致で見出し理屈を見出すことは聖なる理屈として有り得る話である。
※シナプスとは共観福音書 the Synoptic Gospels; the Synoptics. ※もくし‐ぶんがく
【黙示文学】 (Apocalyptic Literature)終末時の神的秘密を象徴=幻などによって啓示する文書。前2世紀~後2世紀のユダヤ教・キリスト教に多く、新約聖書のヨハネ黙示録や旧約聖書のダニエル書がその典型。 ※もくしぶんがく
【黙示文学】 apocalyptic literature 前200年頃~200年頃にユダヤ=キリスト教文化圏で書かれた一連の宗教的文学ジャンルの総称。未来の出来事,特にこの世の終末のときのありさまについての秘密の知識を超人間的な手段で知り,これを象徴によって人々に語り,最後まで忠実である人々を神が劇的に救済するという匿名の(ときに高名な預言者の名を借りた)書物が中心。宗教的圧迫や政治的苦難を社会的背景として生れ,民衆の間に広がった。また⇒エッセネ派や原始キリスト教に深い影響を与えた。聖書正典としては旧約の『ダニエル書』,新約の『ヨハネの黙示録』が代表的。その他聖書,外典を問わずこの文学に属する文書または断片は少くない。これらの文学の解釈をめぐっては,未来を預言するとするもの,荒唐無稽とするものなどさまざまな立場がある。19世紀以来この種の文学が復活し,現代のSFにもこの傾向がみられる。
【タロットとトランプ】
タロット学は黙示録であり聖なる存在の救済の理屈であり、トランプは切り札であり、勝つための切り札の術である。それは勝つための手段であり、金儲けの手段であり、詐欺師でもよくペテン師でも良いのだ。赤鷺とは日本では結婚詐欺師を言います。結婚詐欺師に聖なる愛はありますか?タロット学は理屈であり、聖なるものの証明です。後者は勝つための術であり、金儲けの術です。詐欺師でもよくペテン師でも良い。そこに聖なる理屈はない。ただの術である。それは詐術でありペテン術である。
【サラブレッドとの関係】
勝者の偶像と符号一致偶像である競馬のサラブレッドの勝者は其の血統に様々な符号一致を見いだす人がいます。サラブレッドの血統自体を知ればそれはありきたりの法則に過ぎないことが知れます。それが詐術でありペテン術であり、理屈はないのです。勝つ術と金儲けの術がサラブレッドと競馬業界です。もし競馬学があるとすれば科学的思考を其の現実認識から見出すことぐらいだろう。私は日本の千葉県にある中山競馬場でそれを学びました。私はそこでギャンブラーとして現実批判の修行をしたのです。現実批判へ転嫁せよ!そこにこそ真理はあるのだ!現実とのギャンブルの修行だった。
【ユニコーンの理屈】
言葉ではなくシナプスによって符号一致を見出すことが心の綺麗さによって其の者の最愛人への聖なる愛のあり方が其の物の身体がその最愛人に対し身体が腫れそして其の者がユニコーンとなるあり方となります。それは聖なる愛による貞操が決して禁欲ではなく、逆に体が聖なる愛によって腫れを起こしていくことで絶えず聖なる愛の快感を体に宿しそれによって聖なる愛は証明されることになり、それを慰めることは聖なる愛を慰めることであり、決して聖なる愛の貞操のために精液を自ら抜いてはいけない射精である。最愛人への聖なる愛こそがエロスでありユニコーンとはそういった心愛からの腫れが心の綺麗な象徴としての可憐な処女とユニコーンの関係性を現している。とても美しいエロスなのだ。聖なる自慰とは聖なる愛によって腫れたユニコーンの聖なる角を慰めながら最愛人を思う行為である。
wiki unicorn 引用
ドメニコ・ザンピエーリ(1581 – 1641) 「処女と一角獣」 フレスコ画、1604 – 1605年、ファルネーゼ宮、ローマ。
最愛びとへ聖なる愛を込めて <<<<< by 宗磨>>>>>>>












