ラーメン珉珉@鐘ヶ淵 2026/02
パーコーメン醤油
――世の中に、不思議なことなど何もないのだよ。
しかしね、墨田区は鐘ヶ淵、あの古びた暖簾の向こう側に転がっている現実だけは、どうにも僕の認識の枠組みを歪ませてしまうのだ。 東武伊勢崎線の線路際、下町の煤けた空気に溶け込むように佇むその店――「珉珉」という、およそどこにでもありそうな名前を冠したその空間は、一種の固有領界、あるいは言語を絶した「概念の墓場」のような趣を呈している。
そもそも、あの呪文は何なのだ。 「シオハンハン、カタメ、アブラスクナメ、パーコーベツザラ」――。 rational(合理的)な近代社会に生きる我々が、なぜあのような土俗的な呪詛まがいの言葉を口頭で唱えねばならんのだね。まるで、しかるべき手順を踏まねば命を奪われる、奇怪な儀式ではないか。だが、驚くべきことに、その儀式を経て供される物体は、我々の脳髄を直接蹂躙するほどの、圧倒的な「物質」そのものとして其処に現出するのだよ。
混沌たる液体の顕現
目の前に置かれた器を見たまえ。 それは、およそ現代の洗練された「拉麺」などという小綺麗な記号では括りきれない、暴力的なまでの質量を持っている。 表面を覆い尽くす、あの分厚い透明な膜は何だ。油だよ。視覚を欺くほどの分厚い脂の層が、底に眠る熱を一切外へ逃がさぬよう、完璧な遮断壁を形成しているのだ。
箸を入れ、その油の結界を破った瞬間、立ち上るのは湯気ではない。それは、鶏ガラやゲンコツといった獣の骨が、数時間におよぶ煮沸の刑を経て排出した、原初的な狂気の芳香だ。
スープを一口、舌に乗せる。 ――強い。 あまりにも塩気が強いのだ。 淡麗だの、無化調だのといった、現代の脆弱なグルメ気取りたちが尊ぶ、お上品な欺瞞はここには一切通用しない。がっちりと効かされたケミカルな旨味と、容赦のない塩分、そして猛烈な脂が、三位一体となって味覚神経の城壁を爆破する。それは美味いとか不味いとかいう、個人の嗜好を超越した「暴力」なのだ。一度脳がその過剰な刺激を記憶してしまえば、もはや逃れることはできん。それは「中毒」という名の、一種の憑物(つきもの)だからだ。
そして、あのトッピングという名の「怪異」だ。 盛られたパーコー(揚げ豚)を噛みしめれば、衣はカリカリと音を立て、下植物的な油の快楽をまき散らす。一方で、スープの闇に沈むチャーシューを引っ張り上げれば、それは形を保つことすら拒絶するかのように、箸の先でトロトロと崩壊してゆく。 何という矛盾だ。何というグロテスクな調和だろう。 白っぽい中細のストレート麺は、その狂おしいスープをみるみると吸い上げ、刻一刻と自らの輪郭を曖昧にしてゆく。だからこそ、皆一様に「カタメ」を乞うのだ。そうしなければ、器の中の混沌に、麺という存在自体が溶けて同化してしまうからだ。
器が空になったとき、手元に残るのは、油に塗れた指先と圧倒的な「満腹」という名の虚脱感だけだ。
暖簾を潜り、鐘ヶ淵の現実の街並みに戻ったとき、私たちはようやく、あの店がかけた「珉珉」という名の呪縛から解き放たれる。だがね、数日も経てば、君の脳髄は再び、あの塩気と油の記憶を求めて疼き出すはずだ。 私はもう、あの鐘ヶ淵の怪異に、魂の半分を喰われてしまっているのだから。














