なので、現代の社会で最も欠乏している資源は、実のところ「関心」であるという実感を持っています。劇中で真理が、資本主義のシステムの中で「外部」に置かれた人たちの怒りに正当性を認める箇所があります。SNSを追っていると、人びとがどこで強烈な反駁を始めるか、人びとの怒りが特にどこで火がつくかを見ることができます。それは特に知的・道徳的に劣っている、というジャッジを受けたときです。そして、この知的・道徳的なジャッジがある程度妥当であることも多いとは思っています。ただし、ジャッジする側が知識において、必ず劣っているものが一つあるとも思っています。それはジャッジを受けるその人の人生についての知識です。ジャッジする側は、それを受ける側の人生についてはほとんど無知です。例えば、「ネトウヨ」や「陰謀論者」としての平板な生しか想像しない。批判されるような「その意見」を持つに至る過程は、その当人にとっては合理的なものであるはずです。でも、そう考えるに至った人生のプロセスに、ジャッジする側はほとんど「関心」がない。無関心だからこそ、相手の人生に無知であることにもほとんど頓着しないわけです。ここで生じる怒りは、私もまた一定の正当性があると思っています。それが、自分自身の生への無関心に対する、根源的な怒りだからです。
濱口竜介が考えるケアと資本主義──映画『急に具合が悪くなる』ロングインタビュー | GQ JAPAN











