Eddie Kingston Got No Business F***ing Being Here | By Eddie Kingston
The only reason I’m still doing this, and really the only reason I’m still on this earth is because of all the friends who never stop having
人生のほとんどの期間、俺は自分が狂っていると思っていた。
"おいエディ頼むよ。冗談言わないで 。これはワークでしょ。わかってるよ。これはキャラクターの一部だってこと。"
友よ、お前はは何も分かっていない。俺は物心つく前から気が狂っていた。高校1年の時、ある子と近所のくだらないことで喧嘩をした。文字通り、何が原因だったのかも分からなかった。次の日、授業を受けていると、そいつが廊下を歩いているのが見えた。テストステロンと無駄なエネルギーに満ち溢れていた俺は椅子から飛び出して "元気か?"と言ったんだ。
ここはヨンカーズ(ニューヨークの下町。キングストンの地元)だから、昼休みに駐車場の外で待ち合わせとかなんてことはしない。そんなことはないんだ、兄弟。始まりだ。奴は本を捨てて教室に入り、俺に突進してきたんだ。授業の真っ最中−プリントはあちこちに飛び散り、先生は叫び、生徒は机の上に飛び乗った。大混乱だ。実際俺たちは“宗教”の授業中だった。神に誓って言うが、俺はキレていた。記憶もとんだ。俺は拳を叩きつけた。本で、フォルダで、あらゆる物で奴を殴りつけた。学校は新約聖書を教えようとしていたのに、俺はクソ野郎をジャーマンスープレックスで黒板に叩きつけようとしていた。あれは手に負えない状態だった。
刑務所に入らずに済んだただ一つの理由は、若かったからってだけだ。俺は怒り、怒り、怒りだけの子供だった。世界と戦いたかった。どこでも落ち着いた気持ちになれなかったからだ。俺はアイルランド人とプエルトリコ人のハーフで、全ての方向から攻撃を受けていた。近所のアイルランド人たちの間では「おい、元気かスピック(補:スペイン語話者。もちろん侮辱的な意味で)」、近所のプエルトリコ人たちのところにいたときは、別のくだらないことを言われていた。真面目な話、小学2年生の時に「おい、このスピックを追い出せ」と言われたのを覚えている。
それは傷跡を残すことになる。弱々しい人間になるか、狂人になるか。それで、俺はどうなったと思う?11歳の時に叔父たちから数分間パンチの打ち方を教わってから、俺はストリートでフェンスに向かってスイングしていた。俺を落ち着かせることができたのは、プロレスのテープだけだった。昔のVHSテープだ。母親はブロンクスのビデオビジョンに行っていた−ブロックバスター(補:レンタルビデオの大型チェーン)なんかじゃなくて俺が言っているのはビデオビジョン、おばさんとおじさんと猫がいる、カウンターの後ろにアダルトコーナーがある奴だ−母親は何を借りたらいいのか全然分かってなかったから『レスリング』ってあるやつを適当に掴んで借りてきていた。毎週金曜日、小学校で誰かの首を絞めたりしないで一週間を過ごすことができたら、中華料理とプロレスのテープがご褒美だった。
ある夜、母親が適当なテープを持って帰ってきたのを覚えている、90年代のVHSテープは何が入っているのか分からなかったんだ。何かを借りるとき、店はカバーのついてない硬いプラスティックの謎の箱を渡してくる。で、俺はリビングルームのテレビを占拠した(アイルランド人の父親は「ニュースを見たいのに、この子はまたレスリングだ!」と大声を上げ、プエルトリコ人の母親はキッチンから「落ち着きな!今週この子は良い子だったんだよ!!」と叫びかえした。)。私はこのランダムなテープを入れ、静電気やトラッキングやコピーの警告なんかが終わった後、スクリーンにこの3つの言葉が表示された。
このテープを見始めて1分もした頃にはもう自分は夢中になっていた。それは何か別の惑星からの光線のようだった。違う狂った次元。このテープには全てがあった。1979年、有名でもないミシシッピー州のテユペロの売店での戦い。俺が何を言ってるのかわからなかったらyoutubeを見てくれ。最初はごく普通のタッグマッチがリングで始まった。それから男は客席をずっと通り抜けて後ろの売店の辺りまできて、ポップコーンの機械やら鍋やフライパンやホットドッグを使ってお互いに攻撃し始めた。で、売店の人が「ストップ!ストップ!止めて!警備員!」ってずっと叫んでた。
俺はびっくりした。想像してくれ。俺は半分アイルランド人、半分プエルトリコ人の小さいキチガイで、ブロンクスのソファに座ってワンタンスープを食べて、昔ながらのメンフィスレスリングを見て、母親に向かって「今の見た!?信じられる??」
このテープには全てがあったエディギルバートが会場外の駐車場でジェリーローラーを車で轢いた。男がリングで血を流した。俺はレスリングが何なのかよく分かってはいなかったが、その時俺が大きくなって何になりたいのかは分かっていた。
俺はヤンキースタジアムでホームランを打ちたいとは思っていなかった。
俺はスーパーボウルでタッチダウンのパスを出したいとは思っていなかった。
それから数年が過ぎて中学生になった俺は全日本プロレスとインターネット上のニューヨークのテープ交換掲示板を見つけた。全日本三冠王座戦のテープを知り合いの知り合いの知り合いのクイーンズかなんかのやつから手に入れるのに何ヶ月も待たなきゃならなかった。それと交換したかったらお前も良いテープを持ってなきゃいけない。ポケモンカードみたいなもんだけど、ただこれは知らない奴とインターネットで連絡をとって街角で会わなきゃならない。どっかに出かけてよく知らない奴とテープを、ビデオデッキに入れるまでは何だかわからないものと交換するんだ。お前は何にハマっているのか分かってなかっい。その相手が良い奴だといいなと思ってた。掴まされてないってことを祈ってた。家に帰って、テープをデッキに入れて、なんだかわからない日本語の文字がが画面に飛び出てきて、スーツを着た奴が実況席で訳がわからない事を叫んでるのが映し出されてくる事を祈っていた。古いマーティン(補:90年代初期のコメディ番組)なんかじゃなくて全日本のテープを手に入れられる事を祈っていた。
94年の川田vs三沢を手に入れた時のことは絶対に忘れられない。本物ファンにはこれだけで十分だ。その日付けだけ。94年の6月。皆知っている。ザラついたビデオテープでも激しいチョップで汗が飛び散るのが見えた。その音は信じられないくらい大きく響いた。あのバックドロップ。あれはリアルな暴力だった。それをヨンカーズの小さなアパートで見ていて、俺は座ることも出来なかった。今だって、それを座ることも出来ずに見ている。神に誓って、その94年6月の試合を1000回以上は見ていると思う。エアポートで飛行機の搭乗待ちをしている時、YouTubeにつないでそれを見ると俺はもうただその試合のことだけしか考えられなくなる。はまり込む。これだけの為に生きている。
この試合のせいで何度も飛行機に乗り遅れそうになったことがある。デルタ航空の人が来て俺の肩を叩いてこう言うんだ「お客様!」。その時俺はここにはいないんだ。俺は東京にいて、全てのラリアットを感じている。
レスリングを見ることはいつも逃避だった。これは俺の聖域だよ。これは多分ただ一つの、刑務所に入らずにいさせてくれる物だった。高校生になって、何をするか分かると思うが夜友達に来いと呼び出されたりしていたが、俺は家にいてRawを見て、スーパーJカップを見て、ECWを見ていた。ニューヨークの奴らはECWが夜中の2時に宗教チャンネルで放送されてたのを覚えているか?眠気と戦いながらきちんとした女性が癒しだか赦しだかについて話したその直後、
EEEEEEE SEEEEEEE DUBBLE-YEEEEWWWWWWWW!!! (いーーーーしーーーだぶりゅううううううううう!!!)
男たちが有刺鉄線を巻いたバットで殴られる。ダッドリーデスドロップを喰らう。客席に向かってムーンサルトをする。
俺はこれは別次元からのメッセージみたいだったと思う。悪魔が主導権を奪ったんだぜ。俺が初めてECWを知った時、知ってる奴を見ているような気分だった。他の奴らと同じようにWWFも見ていたけど、でも俺はいつもあれはソフトなように感じていた。ECW、あれはキャラクターじゃない、あれは自分が知っている街角にいる本当の男たちみたいだった。
俺はニュージャックのような男を知っている。俺はドリーマーのような男を知っている。
そういう奴らがテーブル葬叩される時、自分の叔父さんがテーブル葬されている気分だった。
正直にいうが、鬱屈とした気分から引き上げてくれるものはプロレスだけだった。近所の人達と戦わないでいられるのは、家で座って試合を見ることだけだった。それ以外はずっと鬱のような状態だった。あの頃、そういう状態を表す言葉はなかった。俺は強い奴でいようと思ってメンタルヘルスだとか、セラピストだとか、感情だとかに耳を貸したりしなかった。
自分でそれをコントロールできない時、授業の途中で誰かを殴ってしまっていた。宗教の授業の乱闘という事実が問題になって高校を退学させられた。18歳の時に俺の人生はどこへ向かっているのかわからなくなった。有難いことに父親と叔父たちは溶接工で、大人たちのように俺が自分の手でどうにかできると思っていたし、なおかつ俺が働き者だと言うことを知っていた−これが一番大切なポイント−のでIronworkers580(補:歴史あるニューヨークの建築系溶接労働者組合)に入れられることになった。そこには911のワールドトレードセンターの瓦礫を越えて行った男たちがいた。本物のブルーカラーの、ニューヨークのタフガイ。映画みたいなもんじゃない。正真正銘のタフガイだ。毎日の弁当にフラスコ(に入れたアルコール)とタバコ2箱持ってくるような奴らだ。
ある日地上50階の現場にいたことを俺は一生忘れない。コロンバス59丁目(補:地下鉄駅。セントラルパークのあたり)。俺は鋼鉄の梁に腰掛けてマンハッタンを見渡して、振り返ると70歳ぐらいの男がサンドイッチを食べていて、タバコを吸いながらあと数年頑張って働いてもうちょっとお金を貯めたら息子を同じように組合に入れると話していて、その時全てが止まったように感じた。全てが静かになった。そして気づいたんだ。
これは、残りの人生で俺がやりたいことじゃない。俺は自分がやりたい事を知っている。いつだって分かっていた。
その夜家に帰ってコンピュータをAOLの黄色い奴(補:今で言うGoogleみたいなもの)に繋いで「プロレスリングスクール ニューヨーク」と打ち込んだ。
これが俺の人生を変えた旅の始まりだ。3年後、俺はスターになった。何億もの金を稼いだ。レッスルマニアのカーテンをくぐり抜けた。
冗談だろ?3年後俺は破産寸前で、太り過ぎで、鬱で、ビンゴホールで8人の客の前で試合をしてた。ペンシルバニア州のパロアルトっていうとこがあるのを覚えている。俺と友達はそこへ車で行って、ちゃんとギャラが出る事を祈り、試合をして、車で戻った。給料はそこへ行くまでのガソリンと後の食事代で全部消えた。で、そこで興行をする為に行って、バックステージで準備をするんだが、ずいぶん静かだった。ブーツの靴紐を結び、カーテンをくぐり観客を見渡すと…
リングサイドの片方に3人、反対側に4人。変なやつは1人で座ってた。
最初に思ったことは、こりゃあ今夜はギャラは出ないなってことだった。せめて良いものにしようじゃないか。
ビンゴホールの8人の前でした試合は、それでも痛みを伴うものだった。チョップもまだ痛かった。次の日でも身体は痛かった。でもレスリングを愛していたら、それはどうでも良いことだ、プロレスへのプライドと尊敬の為にそれをやったんだ。だから俺は自分にできる全てのことをしたし、その観客のなかの1人が熱狂的になってくれた事を死ぬまで忘れない。彼女は立ち上がり、俺たちに向かって叫び、文句を言った、そしてそれが俺に火をつけ、俺はありとあらゆる名前で彼女のこと呼びつけた。がっかりしないでほしいんだが、たしかラージマージと彼女の事を呼んだんだ。彼女はポップコーンを投げた。素晴らしかった。
試合が終わりバックステージに戻った、もちろんプロモーターは金を払わなかった。近くに座ってた奴がこの後どこで食べるかって話していて、俺は金が全然なかったから腹が減っていないと嘘をついた。
「ああいや、俺はいいよ。良いって。腹減ってないんだ。一緒に行って水でも飲んでるよ」なんて下らない事を言っていた。
そして俺のタッグパートナーは友達で本当にいい奴で、いつも誰にも言わずに俺の分を払ってくれていた。興行の後、駐車場で荷物を全部積み込んで、俺は全てに落ち込んでたその時、「ちょっと!ちょっとあんた達!」と叫ぶ声を聞いた。
彼女は「すごく良かったよ!めっちゃ楽しかった。みんな最高!ありがとう!!」みたいなことを言った。
俺は20年インディで活動してて、大した事は何も達成出来なかったし、辛い思いをしたし、自暴自棄になったり、鬱になったり、両親に家賃を払うための金を借りたりした。正直言って、なんでこんな事を続けているのか度々わからなくなったりもした。
時々たった1人の人だけで物事の原因になる。ある人の一晩を素晴らしいものにする、そしてそれが続ける原因になる。だから俺は続けていった。16年以上の間世界中で試合し、氷のリンクの上や、VFW(退役軍人センター)や、エルククラブや駐車場で試合をして、晴れ舞台を迎えることはなかった。溶接工として働くのは趣味で、プロレスが俺の本当の仕事だとよく言っていた。組合の連中はそれを面白がっていた。俺がだんだん歳をとってくると身体にガタがきて、鎮痛剤に頼るようになった。酒をもっと飲むようになった。そして自分自身に嫌気がさし、怒り、落ち込み、最終的に薬を止めた「おい、わかるか?何で薬に金を注ぎ込んでるんだ?くそっそんなことなら酒に使うぞ!」って思ったからだ。
で、酒だ。俺は飲んだ。もっと酒が飲めるからバウンサー(補:警備員というほどかっちりした仕事ではなく、バーにいて揉め事を起こした人を外に追い出す役目)になった。週末には昼の1時から7時まで飲んで、どこかで試合をしてバーに戻り、朝の7時まで飲んだ。で次の日起きるとフットボールのある日曜日で昼から夜中の2時まで飲んだ。
俺はムカついていた。俺は自分が嫌いだった。家で座ってウイスキーを飲んで、インディで一緒にやってた奴らが大きいプロモーションのテレビ番組に出ているのを見ていた、そして俺は座って怒りが爆破するまでただイライラしているだけだった。壁を殴り穴を空けた。酒の瓶を粉々にした。自分自身にとっても他の人間にとっても危険な奴だった。ある週、俺は最終的に酒で絡んで最悪なことになって、姿を消すことにした。興行にも出るはずだったが、行かなかった。自分の携帯電話を壊し、誰も捕まえることができないようにした。みんな俺が死んだんじゃないかと心配していた。午後に目を覚ますと、アパートには割られたビール瓶がそこらじゅうに散らばっていた。何かの理由で、多分奇跡かなんかで、郵便受けを確認したら、そこには手紙が入っていた。「手紙?俺に最後に手紙を送ってくれたのは婆ちゃんだったな」
その手紙は友人のアレックス・ワイブロウ、ラリー・スウィニーからだった。長いことインディでやってる素晴らしい男。そいつが最後の手段として手紙を寄越したんだ。そこには、皆が心配しているから連絡してほしいと書いてあった。忘れもしない、その手紙の最後の行にはこうあった…
「親友をなくしたような気分だよ。お願いだから連絡してほしい」
これで目が覚めた。アレックスに電話をして、穴から這い出た。俺はいつも誰も俺のことを気にしてなんかいないんだと思っていた。失敗作、負け犬、悪い知り合い、そんな感じに。子供の頃からずっとそう感じていた。もしもアレックスがその手紙を送ってくれなかったら、俺は今日ここにはいないだろうな。多分死ぬまで飲んでただろう。奴は命の恩人だ。
そして一番悲しい事は、言ってくれたその言葉はあいつ自身の心のずっと奥底から来ていた…何故ってその数年後にあいつは自殺しちまったから。あいつは俺が味わっていた痛みを知っていたんだと思う。その暗闇を知っていたんだ。
そしてだからこそ俺はこんな話をしている、振り上げた拳を引っ込めたりはしないし、オールドスクールな奴らはこんな話聞きたくもないだろうし、話すべきじゃないと思ってるだろうが、そんな奴らは糞喰らえだ。もしも俺が抗うつ剤を飲まなかったり、メンタルヘルスのために手を借りたり、怖がってこう言った事を話せなかったりしたら自殺していただろう。以上。こういう事を話そうとする俺の口を塞いだり、そういう気持ちを薬や酒で消したり出来ないほど沢山の友人をこの業界で亡くした亡くしてきた。
アレックスの思い出として、この話をしよう。あいつは俺を救ってくれた。でもあいつ自身を救う事はできなかった。ずっと俺はもうここには居たくないと思っていた。罪悪感と怒りと情けない気持ちでいっぱいだった。アレックスが死んだ後、俺はゆっくりと(アルコール依存やメンタルヘルスの)助けを貰いほんの少し身綺麗にしていった。でも37歳になったある日、俺にはその日は永遠に来ないことに気が付いた。先人たちは俺にチャンスを与える事は絶対にない。多くの橋を燃やしすぎた。地獄へ行けと多すぎるプロモーター達に言い放った。評判が悪過ぎた。
俺はもう終わりだ。ある日、兄弟が家に来たときにアラスカに引っ越すつもりだと伝えた。自分の手で働く。新しい生活を始める。結婚もしていない。子供も1人もいない。プロレスというこの仕事に人生を捧げてきて、失敗して、そして辞める時が来た。
兄弟は俺を見た、兄弟だけが出来る視線で。そしてウイスキーをひと口飲み、動きを止めた。そして「わかったよ。ああ、自分のことは自分でするんだもんな。お前の人生だ。でも俺の息子になんて言えばいい?」と言った。
するとやつは「叔父さんは夢を諦めたのに、俺の息子に諦めるなってどうやって説明したらいい?」と返事した。
俺はただ奴を見つめ「糞野郎。なんて事言うんだ?なんて事を」と思った。
俺は想像した、甥が1年生になり友達と話す。「僕のおじさんはレスラーなんだ!」
そして小さい子供はこんなかんじだ「えー??違うよ!おじさんはレスラーじゃないよ!」
その時、俺は辞めることはできないと決意した。もう数年このままやり続けよう、甥が学校で携帯のYouTubeを使ってエディ叔父さんがリングで誰かをスープレックスするところを友達に見せることができるぐらい大きくなるまで。WWEだとか AEWだとかに行くみたいなことじゃあない。そんなことは気にしちゃいなかった。ビンゴホールか、VFWか−叔父さんが本当にレスラーでいる限り、他は気にしなかった。
だから続けた。で、去年のコロナ禍だ。全てが閉鎖された時俺は海を超えてイギリスで試合をしていて、国境が閉鎖される時に残りの2000ドルを使って家に帰って来た。何ヶ月も全てのインディが活動停止して、すぐにそれが何を意味するのか知った。終わりは見えなかった。レスリングブーツを売り払ってローンの返済に充てなけりゃならなかった。あと1ヶ月でどうにかしなければ、家を失うことになる。母親に電話をして、この契約のことを伝えた。屈辱的だった。このままだとヨンカーズの両親のところに戻らなければいけなくなる。
その後、ニュージャージーの野外での興行の連絡を貰った。駐車場の真ん中にリングを立てて、お客は車から試合を見る形で許可を取っていたんだ。ノーとは言えなかった。ニュージャージーまで行き、興行の最中これが自分の最後の試合になるだろうと思っていた。俺は家を失う。崖っぷちだ。
そして試合後にマイクを取り、俺が一番得意な事をただ始めた。俺は悪態をついた。大きいプロモーションの全てのチャンピオン達に呼びかけた。そしてそれがどういう事なのか考えもしなかった。俺はただ俺でいただけだ。俺は俺が好きな事をやっただけ。でもそれが何故か、どうにかして、誰かが俺がキレているところのビデオをソーシャルメディアに載せて、それがコーディ・ローズと AEWへの道を作った。多分それは面白いとか狂ってるとかなんかわからないけど思ったんだろうが、でもそれが思いがけない AEWのタレント部門の目に留まって「ビデオを見ましたよ。あなたにコーディと試合をしに来てほしいんです。」となった。
そして俺はまたその時に鬱で落ちこんでいたから、最初に口から出てきた言葉は「いくら払うんだ?」だった。
俺はトライアウトだとは思っていなかったよ。奇跡だとも思っていなかった。「家のローンを払わなきゃ」それ以外の事は考えてなかった。俺にとってはただのブッキングだった。明細評。38歳だぜ。契約する訳がない。ただの小さなクソったれなやつだ。誓って言うが、そのショーに行ってバックステージにいる時は無感覚だった。誰とも話さなかったし、興奮もしていなかった。
鏡の前にいる時、8マイルな事は何もなかった。俺は文字通り「これをさっさと終わらせたら金が手に入る」と言うことだけ考えていた。コーディは全てにおいて素晴らしかったことは覚えてる−そして俺がリングインする時にどんな曲がほしいか聞いてきたから俺は本当のことを言ってやった「何で俺に入場曲があるんだ?俺はここで働いてないだろ。音楽はいらない。俺はただ出て行ってお前をぶっ潰す。俺はただの男だから。」
するとコーディは「わかったよ。じゃあマイクを渡そうじゃないか」
「そうだ。ただマイクを持って出てきて俺の事を非難するんだ」
つまりこれがコーディ・ローズだ。こういう「男」だよ。俺に出てきて非難してほしいと言う男なんだ。今思うと鳥肌が立つな。俺には随分と大それたことだけど、彼は俺にはその時を与えてくれて、それが人生を変えることになる。
その他の俺の人生を変えた男はブロディ・リーだ(安らかに眠れ)。ブロディのことはインディで何年も前から知っていた。最高の男だ。本物のプロ。奴はバックステージでカーテンから出て行くその直前に側に立っていて、俺が無感覚になっているのを見ていた。
俺に近づいて真面目な口調でこう言った「おい、俺の知ってるエディ・キングストンはどこだ?」
そして強く押し退け、俺は後ろによろけた。それはまるで野獣が目覚めたようだった。
ブロディは数歩よろけて「ここにいた」と俺を見て言った。
その夜歩いてカーテンをくぐった俺はボロボロの男だった。38歳。憎しみに満ちた。自虐的な。母親の元に引っ越す寸前の。
次に何が起こったのかは説明ができない。いまだに理解できない。今でも誰かが夢から呼び起こしに来るのを待っているんだ。
コーディと試合をした。俺は今まで1万人と試合をして、1万回試合をした。俺は仕事をした。やつを叩きのめした。奴も俺を叩きのめした。画鋲にパワーボムをした。物語を伝えようとした。これを見た誰かに何かを感じさせようとした。ただ1人でもいい、つまらない日を過ごした誰かがそこから逃げ出すためにこの試合を見てくれたら。
俺はただ自分の仕事をして、奴が俺をピンフォールして、歩いてカーテンをくぐって戻った。
そこでブロディリーとジョンモクスリーを見た。あいつらは飛び跳ねてたよ。拍手はしてなかった。あいつらは俺にすげえとかは言わなかった。そういう奴らじゃないんだ。ただ笑っていたのは気づいていたよ。
モクスは「良かったぜ。上手くぶちかましたな」と言った
そしてその時気がついた、「おい、お前はテレビに出てるじゃないか。すごいことだよ。ここで終わったとしても、少なくとも俺にはその事実があるってことだ」
テレビで試合が放送された時、俺の携帯におかしな事が起こった。Twitter、ソーシャルメディア、全部のそういうやつ−今でもどうやってそうなったのかはわからない。俺の知った事じゃない。それで俺の携帯にそういうあらゆるものが(Twitterの)小鳥と一緒にポップアップしてきたけど、俺はまだ理解していなかった。その後は色んなメッセージ、 AEWの人間からも「エディ、トレンドになってますよ」と送られて来た。
俺は「トレンド?何だそりゃ?もっと金が貰えるってことか?」と言った。
彼女は「いいえ、これは大きな事ですよ。人々が#SIGNEDDIEKINGSTON(エディキングストンと契約しろ)とトゥイートしてるんです。」と返事をよこした。
それでもまだ変な感じだ、今でもまだ、俺は愛を受け入れ難い時期があったからだ。俺はニューヨークのハードな男。そんな事は信用してない。俺は疑い深い。俺はいつもなにか別の悪い事が起きる事を待ち構えている。だから全ての関わりのない人々が俺のために立ち上がってくれた時も、どうとも思わなかった。ただ居心地が悪かった。わかっていなかったんだ。 AEWが契約したいと連絡をくれた後でも、どうにも腑に落ちなかった。俺のような男にはあり得ない話だったからだ。
それは2週間後まで続くことになる−俺はガールフレンドとモンタナに旅行に来ていて、2人で車に乗り彼女の友人の家に行こうとしたところで動きを止めて、彼女を振り返りこう言った「おいちょっと待て」
俺は言った「俺が契約したのは知ってるよな?俺はテレビに出た。俺の甥は叔父さんがテレビに出るのを見れる。本当に契約したみたいな感じで。ええと、20年もだ。俺は家を失くすところだった、俺は…」
そして俺は泣き始めた。波のようにこの事実が俺に押し寄せ、やっと何が起こったのか理解し、車の中で堰を切った様に涙が溢れ出た。
この人生には全てがあった。俺は怒りの子供だった。憂鬱なティーンエイジャーだった。中毒者だった。迷い混乱させる細胞をたくさん抱えていた。自虐と自分から他人との諍いを作ることで身動きが取れなくなっていた。残りの金を使い果たした。
ただ一つ俺がこれを続けている理由は、地球上で本当にただ一つ、全ての友人達は俺を支え助けることを止めなかった事だ。
俺はラリー・スウィニーのような友人がいてとても幸せだ。
俺はモクスのような友人が今もいてとても幸せだ(そしてモクスが本当の勇気を見せてくれて誇りに思う。わかってるぜブラザー。頑張れよ。)
おかしい事を教えてやろうか?昔は俺とモクスはブルックリンのエルクロッジで85人の前で試合をしていた。コロナ後のジャクソンビル初めての大観衆の中、ヤングバックスとの生放送の試合、やつと一緒にカーテンをくぐって歩いて行くのは信じられない出来事だった。モクスがドアを蹴り飛ばして開ける寸前に「おい、大スターになる準備をしておけよ。さあ、あいつらのケツを蹴り飛ばしてやろうぜ」と言ったのを覚えている。
事実、ALL OUT PPVでのミロとの試合後に、俺の携帯は多くの人々からの素晴らしい試合だったというメッセージ、人々からの好意を自分ではどうにも消化できないでいた。ただ圧倒されていた。胸が締め付けられた。壁が俺を閉じ込めていった。感情を失っていった。まるでストローを使って息をしている様だった。でもゆっくり呼吸をして自分で自分を落ち着かせる事ができたのは、専門家の助けを求められるくらい俺は勇敢で、何をすべきか知っていたからだ。自分の不安障害と鬱を抱えてどう生きるかを知っている。その事について話す事を怖がったりしない。この業界のオールドスクールな奴らがなんて言うか知った事じゃない。今はもう1987年じゃない。
自分が治らないことはわかっている。俺は完璧じゃない。正直に言うと、今でも本当に落ち込む日もある。でも朝目が覚めて、どんなに悪い気分だったとしても、確かな事が一つあって、それを誇りに思う…
ここからどんなに悪い状況になったとしても、いつだって甥の目を見てこの歳をとってボロボロの打ちのめされたエディ叔父さんは絶対に諦めなかったと言う事ができる。
そして彼がもう少し大きくなって、一年生になって悪ガキに「お前のおじさんはレスラーじゃないぞ。うそつき。」と言われたら、携帯を取り出してエディ叔父さんがクイーンズのアーサーアッシュスタジアムの叫び声を上げる2万人の観衆の前を歩いてゆく−そこは日本のプロレスのテープを交換したり、喧嘩をして警察から逃げていたストリートからほんの少し先にある。
甥は悪ガキのびっくりした顔を見て「ね?」と言える。